れは或《あ》る程度、人間的|誤謬《ごびゅう》によって歪められない訳には行かぬ。いかなる啓示も、絶対的純一物でない。かるが故に、或《あ》る時代に現れたる啓示が他の時代に現れたる啓示と、全然符合しないと言って、必ずしもその一つを異端視する訳には行かぬ。事によると両者とも正しく、ただそれぞれ別箇の適用性を有するのかも知れぬ。すべてはただ純正推理の規準に拠りて、取捨選択を加えればよい。道理が許せば之《これ》を採り、道理が許さねば之《これ》を棄てる――ただそれ丈である。若《も》しもわれ等の述ぶる所が時期尚早で、採用を憚《はばか》るというなら、しばらく之《これ》を打ちすてて時期の到るを待つがよい。必ずやわれ等の教訓が、人類の間に全面的承認を受くる時代が早晩到来する。われ等は決してあせらない。われ等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願して居るものである。
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(評釈) 霊訓中でも、この一章に説く所は、特にすぐれた暗示、すぐれた示唆に富んで居る。贖罪説の迷妄を説き、天則の厳守をすすめ、守護霊の存在を教え、永遠の向上進歩を叫び、人気取りを生命とする一切のデモ教団を斥け、又啓示に盲従することの愚を諭す等、正に至れり尽せりと言ってよい。しかも少しもあせらず、押売りせず、悠々として人智の発達を待とうとする高風《こうふう》雅懐《がかい》は、まことに見上げたものである。私は心からこの章の精読を皆様におすすめしたい。
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      第九章 啓示の真意義

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問『キリストの神性、並《ならび》にその贖罪に対する信仰が、果して一片のドグマに過ぎないであろうか? 御教訓が高尚で、合理的で、純潔であることに異論はないが、あまりにもキリスト教の趣旨と、相容れない点が多くはないであろうか?』
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 経典病の弊害[#「経典病の弊害」に白丸傍点]――汝の疑惑は、よくわれ等に理解し得る。前回に説ける所は、単なる輪廓に過ぎなかったから、今回は少し立ち入りて説明を施すことにしよう。
 所謂キリスト教の正統派というのは、左の諸点を唱道する人達である。曰く三位一体の一位が選ばれたる人々を通じて、真理を人間界に伝えるのであるから、その教は完全円満、永遠不朽に伝うべきで
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