サれよりか今は、本はとっくに買い込んで置きながら、まだ手をつけていない、そしてリルケ自身も「長い、時としては骨の折れる読書」と云うその「ドゥイノ悲歌」を何とかして克服せんことをこそ思うべきであろう。
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   ノオト


「雉子《きじ》日記」のなかで、私は屡々《しばしば》ミュゾオの館《やかた》のことを持ち出したが、それについて富士川英郎君から非常に興味のあるお手紙を頂戴した。「ミュゾオの館」というのは、御承知のようにリルケがその晩年を過した瑞西《スウイス》のヴァレェ州にある古い 〔cha^teau〕 のことである。その見もしない 〔cha^teau〕 のことなんぞを私はいろいろと知ったか振りをして書いて見たのであるが、富士川君の注意によって、二三此処に訂正して置きたいと思うのである。
 先ず、その 〔cha^teau du Muzot〕 の読み方である。私はそれを普通にシャトオ・ド・ミュゾオと発音していた。ところが富士川君の注意によると、リルケ自らが一九二一年七月二十五日にマイリ・フォン・トウルン・ウント・タクジス・ホオエンロオエ夫人に宛てた手紙のなかにそれを Muzotte と発音してくれと書いてあるのだそうである。恐らくそれがその地方特有の呼び方なのであろう。勿論、Muzotte は富士川君も言われるように、仏蘭西《フランス》式にミュゾットと発音するのだろう。従って私の用いていた「ミュゾオの館」は「ミュゾットの館」と訂正されなければならない。
 以上はその館のほんの名称のことだが、富士川君はその名称のことから更に、その前述の手紙の中でリルケがいろいろとその館の構造や由来について詳しく語っている由、まだその手紙を見ていない私に懇切に書いてきてくれたのである。――それによって私はもう一つ訂正して置いた方がいいと思う箇所を発見したが、私はその詩人の愛していた古い館をただ漠然と十三世紀頃のものと書いていたが、その頃から残っているのはその建物の根幹だけで、それから何度も建て直され、現存している天井や家具の多くは十七世紀頃のものらしい。それからリルケがその館のさまざまな歴史を書いているうちに、こんな話があるそうである。
 十六世紀の初め頃に、その館に Isabelle de Chevron という娘が住まっていた。その娘は Jean de Montheys 
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