い月をぼんやり眺めているうちに、いつか暗《やみ》にまぎれながら殆どあるかないかに臥せっていた。
 そのうちに女は不意といぶかしそうに身を起した。何処やらで自分の名が呼ばれたような気がした。女の心はすこしも驚かされなかった。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の声だった。そうしてそのときもそれは自分の心の迷いだとおもった。が、それからしばらくその儘じっと身を起していると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはっきりと同じ声がした。女は急に手足が竦《すく》むように覚えた。そうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな体を色の褪《さ》めた蘇芳《すおう》の衣のなかに隠したのが漸《や》っとのことだった。女には自分が見るかげもなく痩《や》せさらばえて、あさましいような姿になっているのがそのとき初めて気がついたように見えた。たとい気がついていたにせよ、そのときまでは殆ど気にもならなかった、自分のそういうみじめな姿が、そんなになってまだ自分の待っていた男に見られることが急に空怖ろしくなったのだった。そうして女は何も返事をしようとはせず、ただもう息をつめていることしか出来なくなっている自分の運命を、われながらせつなく思うばかりだった。それからまだしばらく池のほとりで草の中を人の歩きまわっている物音が聞えていた。最後に男の声がしたときは、もう女のいる対の屋からは遠のいて、向いの尼のいる対の屋の方へ近づき出しているらしかった。それからもう何んの物音もしなくなった。
 すべては失われてしまったのだ。男は其処にいた。其処にいたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするように、男の歩み去った山吹の茂みの上には、まだ蜘の網が破れたままいくすじか垂れさがって夕月に光って見えた。女はその儘|荒《あば》らな板敷のうえにいつまでも泣き伏していた。……

   三

 それから半年ばかり立った。
 近江の国から、或|郡司《ぐんじ》の息子が宿直《とのい》のために京に上って来て、そのおばにあたる尼のもとに泊ることになったのは、ちょうど秋の末のことだった。
 それから何日かの後、郡司の息子が異様に目を赫《かが》やかせながら言った。「きのうの夕方、向うの壊れ残りの寝殿に焚《た》きものを捜しに往きますと、西の対にちょうど夕日が一ぱいさし込んでいて、破れた簾《すだれ》ごしにまだ若そうな女のひとが一人、いかにも物思わしげに臥せっているのがくっきりと見えましたので、私はおどろいてその儘《まま》帰って来てしまいましたが、あれはどなたなのですか。」
 尼は当惑そうに、しかしもう見つけられてしまっては為方《しかた》がないように、その女の不為合せな境涯を話してきかせた。郡司《ぐんじ》の息子はさも同情に堪えないように、最後まで熱心に聞いていた。
「そのお方にぜひとも逢わせて下さい。」息子は再び目を異様に赫《かが》やかせながら、田舎者らしい率直さで言った。「そのお方のほうでもその気になって下されば、わたしが国へ帰るとき一緒にお伴《つ》れして、もうそのようなお心細い目には逢わせませんから。」
 尼は、それを聞くと、まあこんな自分の甥ごときものがと思いながら、それでも彼の言うように女も一そそんな気もちにでもなった方が行末のためにもなるのではないかと考えもした。
 尼はいくぶん躊躇《ちゅうちょ》しながらも、何時かその甥の申出を女に伝えることを諾《うべな》わないわけにはいかなかった。

 或|野分《のわき》立った朝、尼はその女のもとに菓子などを持って来ながら、いつものように色の腿《さ》めた衣をかついだ女を前にして、何か慰めるように、
「あなた様もどうして此の儘でいつまでも居られましょう」と言いだした。「こんなことはわたくしとしては申し上げ悪《にく》いことですけれど、いまわたくしの所に近江からいささか由縁《ゆかり》のありますものの御子息が上京せられて来ておられますが、そのものがあなた様のお身の上を知って、ぜひとも国へお伴れしたいと熱心にお言いになって居りますけれど、いかがでございましょうか、一そそのもののお言葉に従いましては。此の儘こうして入らっしゃいますよりは、少しはましかと存じますが。」
 女はそれには何にも返事をしないで、空しい目を上げて、ときおり風に乱れている花薄《はなすすき》の上にちぎれちぎれに漂っている雲のたたずまいを何か気にするように眺めやっていたが、急に「そうだ、わたくしはもうあの方には逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこに俯伏《うつぶ》してしまった。
 夜なかなどに、ときおり郡司の息子が弓などを手にして、女の住んでいる対《たい》の屋《や》のあたりを犬などに吠《ほ》えられながら何時までもさまようようになったのは、そんな事があってからのことだった。夜もすがら、木がらしが萩や薄などをさびしい音を立てさせていた。どうかすると、ひとしきり時雨《しぐれ》の過ぎる音がそれに交じって聞えたりした。そうでなければ、郡司の息子が、ときどき自分の怖ろしさを紛《まぎ》らせようとでもするのか、あちこちと草の中を歩きまわっていた。……
 そんな夜毎に、女は妻戸をしめ切って、ともし火もつけず、身の置きどころもないかのように、色の腿めた衣をかついだまま、奥のほうにじっとうずくまっていた。かくも荒れはてた棲《す》み家《か》では、奥ぶかくなどにじっとしていると、その儘何かの物のけにでも引っ張り込まれていってしまいそうな気がされて、女は怯《おび》え切り、殆ど寐《ね》られずに過ごすことが多いのだった。
 或しぐれた夕方、尼は女のところに来ると、いつものように沁々《しみじみ》と話し込んでいた。「ほんとうにいつまで昔のままのお気もちでいらっしゃるのでございましょう。」尼はことさらに歎息するように言った。「それは今のようにでもして居られますうちはまだしも、此のわたくしでも若《も》しもの事がございましたら、どうなさるお積りなのですか。しかし、やがてそういうときの来ることは分かっています。」
 女は数日まえのことを思い出した。――数日まえ、尼にその話をはじめて切り出されたとき、突然はっとして「自分はもうあのお方には逢われないのだ」と気づいたときのいまにも胸の裂けそうな思いのしたことを思い出した。あのときから女の心もちは急に弱くなった。それまでのすべての気強さは――畢竟《ひっきょう》、それはいつかは男に逢えると思っての上での気強さであった。――女はもう以前の女ではなかった。
 その晩、尼は郡司の息子をその女のもとへ忍ばせてやった。

 それから夜毎に郡司の息子は女のもとへ通い出した。
 女はもう詮方《せんかた》尽《つ》きたもののように、そんなものにまですべてをまかせるほかなくなった自分の身が、何だかいとおしくていとおしくてならないような、いかにも悔《く》やしい思いをしながら、その男に逢いつづけていた。
 漸《ようや》く任が果てて、その冬のはじめに近江へ帰らなければならなくなったときには、郡司の息子はもうすっかり此の女に睦《むつ》んで、どうしてもその儘女を置きざりにして往く気にはなれずにしまった。
 女はそれを強いられる儘に、京を離れるのはいかにもつらかったけれど、しかし自分の余りにもつたなかった来しかたに抗《あがら》うような、そうして何か自分の運を試めしてみるような心もちにもなりながら、その郡司の息子について近江に下っていった。

   四

 しかしその郡司の息子には、国元には、二三年前にめとった妻が残してあった。そうして親達の手まえもあり、息子は、その京の女をおもてむき婢《はしため》として伴れ戻らなければならなかった。
「そのうちまた、わたくしは京に上るはずです。」息子は女を宥《なだ》めるようにして言った。「その折にはきっと妻として伴れて往きますから、それまで辛抱していて下さい。」
 女はそんな事情を知ると、胸が裂けるかと思うほど、泣いて、泣いて、泣き通した。――すべての運命がそこにうち挫《くじ》かれた。
 が、一月たち二月たちしているうちに、――殆ど誰にも気どられずに婢として仕えているうちに、――こうしている現在の自分がその儘でまるきり自分にも見ず知らずのものでもあるかのような、空虚《うつろ》な気もちのする日々が過ごされた。いままでの不為合せな来しかたが自分にさえ忘れ去られてしまっているような、――そうして、そこには、自分が横切ってきた境涯だけが、野分のあとの、うら枯れた、見どころのない、曠野《あらの》のようにしらじらと残っているばかりであった。「いっそもうこうして婢として誰にも知られずに一生を終えたい」――女はいつかそうも考えるようになった。
 此処に、女は、まったく不為合せなものとなった。
 山一つ隔てただけで、こちらは、梢にひびく木がらしの音も京よりは思いのほかにはげしかった。夜もすがら、みずうみの上を啼《な》き渡ってゆく雁もまた、女にとっては、夜々をいよいよ寝覚めがちなものとならせた。

 それから数年後の、或年の秋、その近江の国にあたらしい国守が赴任して来て、国中が何かとさわぎ立っていた。
 国内の巡視に出た近江の守の一行が、方々まわって歩いて、その郡司の館のある湖にちかい村にかかったときは、ちょうど冬の初で、比良《ひら》の山にはもう雪のすこし見え出した頃だった。
 その日の夕ぐれ、丘の上にあるその館では、守《かみ》は郡司たちを相手にして酒を酌みかわしていた。
 館のうえには時おり千鳥のよびかう声が鋭く短くきこえた。――すっかり葉の落ち尽した柿の木の向うには、枯蘆《かれあし》のかなたに、まだほの明るいみずうみの上がひっそりと眺められた。
 守《かみ》は、すこし微醺《びくん》を帯びたまま、郡司《ぐんじ》が雪深い越《こし》に下っている息子の自慢話などをしているのをききながら、折敷《おしき》や菓子などを運んでくる男女の下衆《げす》たちのなかに、一人の小がらな女に目をとめて、それへじっと熱心な眼ざしをそそいでいた。他の婢《はしため》と同様に、髪は巻きあげ、衣も粗末なのをまとってはいたが、その女は何処やら由緒ありそうに、いかにも哀れげに見えた。その女をはじめて見たときから、守の心はふしぎに動いた。
 宴の果てる頃、守は一人の小舎人童《ことねりわらわ》を近くに呼ぶと、何かこっそりと耳打ちをした。

 その夜遅く、京の女は郡司のもとに招ぜられた。郡司は女に一枚の小袿《こうちぎ》を与えて、髪なども梳《す》いて、よく化粧してくるようにと言いつけた。女は何んのことか分からなかったが、命ぜられたとおりの事をして、再び郡司の前に出ていった。
 郡司はその女の小袿姿を見ると、傍らの妻をかえりみながら、機嫌好さそうに言った。「さすがは京の女じゃ。化粧させると、見まちがうほど美しゅうなった。」
 それから女は郡司に客舎の方へ伴《つ》れて往かれた。女は漸《や》っと事情が分って来ても、押し黙って、郡司のあとについてゆきながら、何か或強い力に引きずられて往きでもしているような空虚な自分をしか見出せなかった。
 守の前に出されると、ほのぐらい火影《ほかげ》に背を向けた儘《まま》、女は顔に袖を押しつけるようにしてうずくまった。
「おまえは京だそうだな。」守はそこに小さくなっている女のうしろ姿を気の毒そうに見やりながら、いたわるように問うた。
「…………」女はしかし何とも答えなかった。
 そうして女は数年まえのことを思い出した。――数年まえには、田舎上りの見ず知らずの男に身をまかせて京を離れなければならなかった自分が自分でもかわいそうでかわいそうでならなかった。そうしてそのときは相手の男なんぞはいくらでもさげすめられた。が、こんどと云うこんどは、その相手がかえって立派そうなお方であるだけに、そういう相手のいいなりになろうとしている自分が何だか自分でもさげすまずにはいられないような――そうしていくら相手のお方にさげすまれても為方《しかた》のないような――無性にさびしい気もちがするばかりだった。女にしてみると、こうして見出される
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