んだりした事はございませんもの。……
 私はそう心のなかで、思わず母に呼びかけては、何遍もその手帳を中途で手放そうと思いながら、やっぱり最後まで読んでしまった。読み了《おわ》っても、それを読みはじめたときから私の胸を一ぱいにさせていた憤懣《ふんまん》に近いものはなかなか消え去るようには見えなかった。
 しかし気がついてみると、私はこの日記を手にしたまま、いつか知らず識《し》らずのうちに、一昨年の秋の或る朝、母がそこに腰かけて私を待ちながら最初の発作に襲われた、大きな楡の木の下に来ていた。いまはまだ春先で、その楡の木はすっかり葉を失っていた。ただそのときの丸木の腰かけだけが半ば毀《こわ》れながらまだ元の場所に残っていた。
 私がその半ば毀れた母の腰かけを認めた瞬間であった。この日記読了後の一種説明しがたい母への同化、それ故にこそ又同時にそれに対する殆ど嫌悪にさえ近いものが、突然私の手にしていた日記をそのままその楡の木の下に埋めることを私に思い立たせた。……



底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社
   1969(昭和44)年11月12日発行
   1992(平成4)年5月20日16刷
入力:横尾、近藤
校正:松永正敏
2003年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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