森さんが突然|北京《ペキン》でお逝《な》くなりになったのを私が新聞で知ったのは、去年の七月の朝から息苦しいほど暑かった日であった。その夏になる前に征雄《ゆきお》は台湾の大学に赴任したばかりの上、丁度お前もその数日前から一人でO村の山の家に出掛けており、雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》のだだっ広い家には私ひとりきり取り残されていたのだった。その新聞の記事で見ると、この一箇年殆ど支那でばかりお暮しになって、作品もあまり発表せられなくなっていられた森さんは、古い北京の或る物静かなホテルで、宿痾《しゅくあ》のために数週間病床に就かれたまま、何者かの来るのを死の直前まで待たれるようにしながら、空《むな》しく最後の息を引きとって行かれたとの事だった。
 一年前、何者かから逃《のが》れるように日本を去られて、支那へ赴かれてからも、二三度森さんは私のところにもお便りを下すった。支那の外のところはあまりお好きでないらしかったが、都市全体が「古い森林のような」感じのする北京だけはよほどお気に入られたと見え、自分はこういうところで孤独な晩年を過しながら誰にも知られずに死んでゆきたいなどと御|常談《じょうだん》のようにお書きになって寄こされたこともあったが、まさか今が今こんな事になろうとは私には考えられなかった。或いは森さんは北京をはじめて見られてそんな事を私に書いてお寄こしになったときから、既に御自分の運命を見透されていたのかも知れなかった。……
 私は一昨々年の夏、O村で森さんにお会いしたきりで、その後はときおり何か人生に疲れ切ったような、同時にそういう御自分を自嘲《じちょう》せられるような、いかにも痛々しい感じのするお便りばかりをいただいていた。それに対して私などにあの方をお慰めできるような返事などがどうして書けたろう? 殊に支那へ突然出立される前に、何か非常に私にもお逢いになりたがっていられたようだったが(どうしてそんな心の余裕がおありになったのかしら?)、私はまだ先の事があってからあの方にさっぱりとした気持でお逢い出来ないような気がして、それは婉曲《えんきょく》におことわりした。そんな機会にでももう一度お逢いしていたら、と今になって見れば幾分悔まれる。が、直接お逢いしてみたところで、手紙以上のことがどうしてあの方に向って私に云えただろう?……
 森さんの孤独な死について、私がともかくもそんな事を半ば後悔めいた気持でいろいろ考え得られるようになったのは、その朝の新聞を見るなり、急に胸を圧《お》しつけられるようになって、気味悪いほど冷汗を掻いたまま、しばらく長椅子の上に倒れていた。そんな突然私を怯《おび》やかした胸の発作がどうにか鎮まってからであった。
 思えば、それが私の狭心症の最初の軽微な発作だったのだろうが、それまではそれについて何の予兆もなかったので、そのときはただ自分の驚愕《きょうがく》のためかと思った。そのとき自分の家に私ひとりきりであったのが却って私にはその発作に対して無頓着でいさせたのだ。私は女中も呼ばず、しばらく一人で我慢していてから、やがてすぐ元通りになった。私はそのことは誰にも云わなかった。……
 菜穂子、お前はO村で一人きりでそういう森さんの死を知ったとき、どんな異常な衝動を受けたであろうか。少なくともこのときお前はお前自身のことよりか私のことを、――それから私が打ちのめされながらじっとそれを耐えている、見るにも見かねるような様子を半ば気づかいながら、半ば苦々しく思いながら一人で想像していたろうことは考えられる。……が、お前はそれに就いては全然沈黙を守っており、これまではほんの申訳のように書いてよこした端書の便りさえそのとききり書いてよこさなくなってしまった。私にはこのときはその方が却って好かった。自然なようにさえ思えた。あの方がもうお亡くなりになった上は、いつかはあの方の事に就いてもお前と心をひらいて語り合うことも出来よう。――そう私は思って、そのうち私達がO村ででも一しょに暮しているうちに、それを語り合うに最もよい夕のあることを信じていた。が、八月の半ば頃になって溜《た》まっていた用事が片づいたので、漸《やっ》との事でO村へ行けるようになった私と入れちがいにお前が前もって何も知らせずに東京へ帰って来てしまったことを知ったときは、さすがの私もすこし憤慨した。そうして私達の不和ももうどうにもならないところまで行っているのをその事でお前に露《あらわ》に見せつけられたような気がしたのだった。
 平野の真ん中の何処《どこ》かの駅と駅との間で互いにすれちがったまま、私はお前と入れ代ってO村で爺やたちを相手に暮すようになり、お前もお前で、強情そうに一人きりで生活し、それからは一度もO村へ来ようとはしなかったので、それなり私達は
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