な日が続きだした。しかしその日ざしはすでに秋の日ざしであった。まだ日中はとても暑かったけれども。――森さんが突然お見えになったのは、そんな日の、それも暑いさかりの正午近くであった。
あの方は驚くほど憔悴《しょうすい》なすっていられるように見えた。そのお痩せ方やお顔色の悪いことは、私の胸を一ぱいにさせた。あの方にお逢いするまでは、この頃、目立つほど老《ふ》けだした私の様子を、あの方がどんな眼でお見になるかとかなり気にもしていたが、私はそんなことはすっかり忘れてしまった位であった。そうして私は気を引き立てるようにしてあの方と世間並みの挨拶などを交《か》わしているうちに、その間私の方をしげしげと見ていらっしゃるあの方の暗い眼ざしに私の窶《やつ》れた様子があの方をも同じように悲しませているらしいことをやっと気づき出した。私は心の圧しつぶされそうなのをやっと耐《こら》えながら、表面だけはいかにももの静かな様子を佯《いつわ》っていた。が、私にはその時それが精一ぱいで、あの方がいらしったらお話をしようと決心していたことなどは、とてもいま切り出すだけの勇気はないように思えた。
やっと菜穂子が女中に紅茶の道具を持たせて出て来た。私はそれを受取って、あの方にお勧めしながら、お前が何かあの方に無愛想なことでもなさりはすまいかと、かえってそんなことを気にしていた。が、その時、私の全く思いがけなかったことには、お前はいかにも機嫌よさそうに、しかも驚くほど巧みな話しぶりであの方の相手をなさり出したのだ。この頃自分のことばかりにこだわっていて、お前たちのことはちっとも構わずにいたことを反省させられたほど、そのときのお前のおとなびた様子は私には思いがけなかった。――そう云うお前を相手になさっている方があの方にもよほど気軽だと見え、私だけを相手にされていた時よりもずっと御元気になられたようだった。
そのうちに話がちょっと途絶えると、あの方はひどくお疲れになっていられるような御様子だのに、急に立ち上られて、もう一度去年見た村の古い家並みが見てきたいと仰《おっ》しゃられるので、私たちもそこまでお伴《とも》をすることにした。しかし丁度日ざかりで、砂の白く乾いた道の上には私たちの影すらほとんど落ちない位だった。ところどころに馬糞《ばふん》が光っていた。そうしてその上にはいくつも小さな白い蝶がむらがっていた。やっと村にはいると、私たちはときどき日を除《よ》けるため道ばたの農家の前に立ち止って、去年と同じように蚕を飼っている家のなかの様子を窺《うかが》ったり、私たちの頭の上にいまにも崩れて来そうな位に傾いた古い軒の格子を見上げたり、又、去年まではまだ僅かに残っていた砂壁がいまはもう跡方もなくなって、其処《そこ》がすっかり唐黍畑《とうきびばたけ》になっているのを認めたりしながら、何ということもなしに目を見合せたりした。とうとう去年の村はずれまで来た。浅間山は私たちのすぐ目の前に、気味悪いくらい大きい感じで、松林の上にくっきりと盛り上っていた。それには何かそのときの私の気もちに妙にこたえてくるものがあった。
暫くの間、私たちはその村はずれの分れ道に、自分たちが無言でいることも忘れたように、うつけた様子で立ちつくしていた。そのとき村の真ん中から正午を知らせる鈍い鐘の音が出し抜けに聞えてきた。それがそんな沈黙をやっと私たちにも気づかせた。森さんはときどき気になるように向うの白く乾いた村道を見ていられた。迎えの自動車がもう来る筈だったのだ。――やがてそれらしい自動車が猛烈な埃《ほこり》を上げながら飛んで来るのが見え出した。その埃を避けようとして、私たちは道ばたの草の中へはいった。が、誰ひとりその自動車を呼び止めようともしないで、そのまま草の中にぼんやりと突立っていた。それはほんの僅かな時間だったのだろうけれど、私には長いことのように思えた。その間私は何か切ないような夢を見ながら、それから醒《さ》めたいのだが、いつまでもそれが続いていて醒められないような気さえしていた。……
自動車は、ずっと向うまで行き過ぎてから、やっと私たちに気がついて引っ返して来た。その車の中によろめくようにお乗りになってから、森さんは私たちの方へ帽子にちょっと手をかけて会釈されたきりだった。……その車が又埃を上げながら立ち去った後も、私たちは二人ともパラソルでその埃を避けながら、何時《いつ》までも黙って草の中に立っていた。
去年と同じ村はずれでの、去年と殆ど同じような分れ、――それだのに、まあ何と去年のそのときとは何もかもが変ってしまっているのだろう。何が私たちの上に起り、そして過ぎ去ったのであろう?
「さっき此処《ここ》いらで昼顔を見たんだけれど、もうないわね」
私はそんな考えから自分の心を外ら
前へ
次へ
全17ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング