っていた。
 向うの雑木林の上方に、いちめんに古綿のような雲が掩《おお》いかぶさっていたが、一瞬間、稲妻がそれをジグザグに引き裂いた。と思うと、そのあたりで凄《すさ》まじい雷鳴がした。それから突然、屋根板に一つかみの小石が絶えず投げつけられるような音がしだした。……私たちはしばらくうつけたように、お互いに顔を見合せていた。それは非常に長い時間に見えた。……それまでちょっとエンジンの音を止めていた自動車が、不意に野獣のようにあばれ出した。木の枝の折れる音が続けさまに私たちの耳にもはいった。
「だいぶ木の枝を折ったようですな……」
「うちのだか何処《どこ》のだか分らないんですから、ようございますわ」
 稲妻がときどき枝を折られたそれらの灌木を照らしていた。
 それからまだしばらく雷鳴がしていたが、やっとのことで向うの雑木林の上方がうっすらと明るくなりだした。私たちは何だかほっとしたような気持がした。そうしてだんだん草の葉が日にひかり出すのをまぶしそうに見ていると、又しても、屋根板にぱらぱらと大きな音がしだした。私たちは思わず顔を見合せた。が、それは楡の木の葉のしずくする音だった……
「雨が上ったようですから、少しそこいらを歩いて御覧になりません?」
 そう云って私はあの方と向い合った椅子からそっと離れた。そうしてお隣りへお前を迎えにやって置いて、一足先に、村のなかを御案内していることにした。
 村は丁度養蚕の始まっている最中だった。家並みは皆で三十軒足らずで、その上大抵の家はいまにも崩壊しそうで、中にはもう半ば傾き出しているのさえあった。そんな廃屋に近いものを取り囲みながら、ただ豆畑や唐黍畑《とうきびばたけ》だけは猛烈に繁茂していた。それは私たちの気もちに妙にこたえて来るような眺めだった。途中で、桑の葉を重たそうに背負ってくる、汚れた顔をした若い娘たちと幾人もすれちがいながら、私たちはとうとう村はずれの岐《わか》れ道まで来た。北よりには浅間山がまだ一面に雨雲をかぶりながら、その赤らんだ肌をところどころ覗《のぞ》かせていた。しかし南の方はもうすっかり晴れ渡り、いつもよりちかぢかと見える真向うの小山の上に捲き雲が一かたまり残っているきりだった。私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持ちよさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのように、一すじの虹《にじ》がほのかに見えだした。
「まあ綺麗な虹だこと……」思わずそう口に出しながら私はパラソルのなかからそれを見上げた。森さんも私のそばに立ったまま、まぶしそうにその虹を見上げていた。そうして何だか非常に穏やかな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持をしていられた。
 そのうち向うの村道から一台の自動車が光りながら走って来た。その中で誰かが私たちに向って手をふっているのが認められた。それは森さんのお車に乗せて貰って来たお前とお隣りの明《あきら》さんだった。明さんは写真機を持っていらしった。そうしてお前が耳打ちすると、明さんはその写真機をあの方に横から向けたりした。私は叱言《こごと》も言えずに、はらはらしてお前たちのそんな子供らしいはしゃぎ方を見ているよりしようがなかった。あの方はしかしそれにはお気がつかないような様子をなすって、すこし神経質そうに足もとの草をステッキで突ついたり、ときどき私と言葉を交《か》わしたりしながら、お前たちに撮られるがままになっていられた。
 
 それから三四日、午後になると、一ぺんはきまって夕立がした。夕立はどうも癖になるらしい。その度毎に、はげしい雷鳴もした。私は窓ぎわに腰かけながら、楡《にれ》の木ごしに向うの雑木林の上にひらめく無気味なデッサンを、さも面白いものでも見るように見入っていた。これまではあんなに雷を恐《こわ》がった癖に。……
 翌日は、霧がふかく、終日、近くの山々すら見えなかった。その翌日も、朝のうちはふかい霧がかかっていたが、正午近くなってから西風が吹き出し、いつのまにか気もちよく晴れ上った。
 お前は二三日前からK村に行きたがっておいでだったが、私はお天気がよくなってからにしたらと云って止めていたところ、その日もお前がそれを云い出したので、「なんだか今日は疲れていて、私は行きたくないから、それじゃ、明さんに一緒に行っていただいたら……」と私は勧めて見た。最初のうちは、「そんなら行きたくはないわ」と拗《す》ねておいでだったが、午後になると、急に機嫌を直して、明さんを誘って一緒に出かけていった。
 が、一時間もするかしないうちに、お前たちは帰って来てしまった。あんなに行きたがっていた癖に、あんまり帰りが早過ぎるし、お前がなんだか不機嫌そうに顔を
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