。いま、私はそれをお前にも、また私自身にもはっきりと言い聞かしておかなければならないと思った。「……いいえ、そんな云いようはもうしますまい。それは本当に何でもない事だったのが私達にはっきり分って来ているのですから、何でもない事として云います。森さんが私にお求めになったのは、結局のところ、年上の女性としてのお話し相手でした。私なんぞのような世間知らずの女が気どらずに申し上げたことが反《かえ》って何となく身にしみてお感ぜられになっただけなのです。それだけの事だったのがそのときはあの方にも分らず、私自身にも分らなかったのです。それは只の話し相手は話し相手でも、あの方が私にどこまでも一個の女性としての相手を望まれていたのがいけなかったのでした。それが私をだんだん窮屈にさせていったのです。……」そう息もつかずに云いながら、私はあんまり暖炉の火をまともに見つづけていたので、目が痛くなって来て、それを云い終るとしばらく目を閉じていた。再びそれを開けたときは、こんどは私はお前の顔の方へそれを向けながら、「……私はね、菜穂子、この頃になって漸と女ではなくなったのよ。私は随分そういう年になるのを待っていました。……私は自分がそういう年になれてから、もう一度森さんにお目にかかって心おきなくお話の相手をして、それから最後のお分れをしたかったのですけれど……」
 お前はしかし押し黙って暖炉の火に向ったまま、その顔に火かげのゆらめきとも、又一種の表情とも分ちがたいものを浮べながら、相変らず自分の前を見据えているきりだった。
 その沈黙のうちに、いま私が少しばかり上ずったような声で云った言葉がいつまでも空虚に響いているような気がして、急に胸がしめつけられるようになった。私はお前のいま考えていることを何とでもして知りたくなって、そんな事を訊《き》くつもりもなしに訊いた。
「お前は森さんのことをどうお考えなの?」
「私?……」お前は唇を噛《か》んだまま、しばらくは何とも云い出さなかった。
「……そうね、お母様の前ですけれど、私はああいう御方は敬遠して置きたいわ。それはお書きになるものは面白いと思って読むけれども、あの御方とお附き合いしたいとは思いませんでしたわ。なんでも御自分のなさりたいと思うことをしていいと思っているような天才なんていうものは、私は少しも自分の側《そば》にもちたいとは思っていません
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