った。
 或風立った日、父が京に心を残し残し常陸へ下って往った後、女はもう物語の事も忘れてしまったように、明け暮れ、東の山ぎわを眺めながら暮らしていた。「今頃お父う様はどこいらを旅なすっていらっしゃるだろう」と、穉い頃|東《あずま》から上ってきた遠い記憶を辿《たど》りながら、その佗びしい道すじの事を浮かべていると、父恋しさは一層まさるばかりだった。朝がた、東の方の黒ずんだ森から、秋の渡り鳥らしいのが一群、急に思い出したように一しょに飛び立って、空を暗くしては山の彼方へ飛び去って往くのなんぞを、女は何がなしいつまでも見送っていた。
 晩秋の一日、女は珍らしく思い立って、太秦《うずまさ》へ父の無事を祈りに、ひとりで女車に乗って出掛けた。一条へさしかかると、その途中に、物見にでも出掛けるらしい一台の立派な男車が何かを待ちでもしているように駐まっていた。女が簾《みす》を深く下ろさせたまま、その前を遠慮がちに通り過ぎて往ってから、暫くして気がつくと、さっきの男車らしいものが跡から見え隠れしながら附いて来ていた。女はそれを気にするように、すこし車を早めながら、太秦まで往き著《つ》いて寺にはいってしまうと、いつかもうその男車は見えなくなっていた。しかし、寺に数日|籠《こも》って、父の無事を一心になって祈っている間も、どうかすると女にはあの立派な男車がおもかげに立って来てならなかった。「若《も》しかしたら――」が、女はそんな考えを逐い退けるように、顔を振って、ひたすら父の無事を祈っていた。

 丁度その頃、父は遠い常陸の国に、供者《ぐしゃ》もわずか数人具したぎりで、神拝をして巡っていた。一行はその日の暮、一つの川を真ん中に、薄赤い穂を一面になびかせている或広々とした芒野《すすきの》を前にしていた。その芒野の向うには又、こんもりと茂った何かの森が最後の夕日に赫《かがや》いていた。
 国守は、なぜか知ら、突然京に残した女《むすめ》の事を思い出していた。そうして馬に跨《またが》ったまま、その森の方へいつまでも目を遣っていた。そのうち何処から渡って来たのか、一群の渡り鳥らしいものが、その暮れがたの森の上に急に立ち騒ぎ出した。国守は、その鳥の群がようやくその森に落《お》ち著《つ》いてしまうまで、空《うつ》けたようにそれを見つづけていた。

   三

 それから五年立った秋、父は漸《や》っと任を果して、常陸から上って来た。兎に角無事に任を果して来たと云うものの、父はいたいたしい程、窶《やつ》れていた。そうしてもう、こん度の上京かぎり、官職からも身を退いて、妻や女を相手に、静かに月日を送りたいと云うより外は何も考えないでいるらしかった。それ程|老《お》い耄《ほう》けたように見える父は、女にはいかにも心細かった。女はもう自分の運命が自分の力だけではどうしようもなくなって来ている事に気がつかずにはいられなかった。しかし、そういう境界の変化も、此女の胸深くに根を下ろしている、昔ながらの夢だけはいささかも変えることは出来なかった。女は自分の運命が思いの外にはかなく見えて来れば来る程、一層それを頼りにし出していた。「こういう少女らしい夢を抱いたまま、埋もれてしまうのも好い」――そうさえ思って、女は相不変《あいかわらず》、几帳《きちょう》のかげに、物語ばかり見ては、はた目にはいかにも無為な日々を送っていた。
「そうやってなんにも為ずにいらっしゃるよりは――」と云って、此頃しきりに宮仕えを勧めて来る人があった。幾らか縁故もあるその宮からも、是非女を上がらせるようにと再三云ってよこしたりした。その宮というのは、今をときめいている一の宮だった。が、昔気質《むかしかたぎ》の父母は、何かと気苦労の多い宮仕えには反対だった。女は勿論、父母の意に背いてまで、そんな宮仕えなどに出たいとも思わなかった。しかし、人々が「此頃の若いお方はみんな宮仕えに出たがっておりますよ。そうすれば自然に運がひらけて来る事もありますからね。ともかくも、ためしにお出しになっては――」などと、なおも熱心に勧めて来るので、とうとう父母もその女の行末を案じ、宮にさし出す事に渋々納得した。これまで安らかな無為の中にばかり自分を見出していた女は、急に自分の前に何やら不安を感じながら、それでも外に為様《しよう》がないように人々の云うとおりになっていた。
 人出入の多い宮仕えは、世間見ずの女には思いの外につらい事ばかりだった。もとより、それが物語に描いてあるようなものではない事は、女も承知していた。が、冬の夜など、御前の近くに、知らない女房たちの中に伏しながら、殆どまんじりともしないでいる事が多かった。そうして女は夜もすがら、池に水鳥が寝わずらって羽掻《はが》いているのを耳にしたりしていた。又、昼間、自分の局《つぼね》
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