残してきた筈《はず》だった。――
 私はその老人が何も言わずに気むずかしげに仕事をしつづけているのに気がねしながら、縁側に倚《よ》りかかって、緒方の出してきた袋の中から自分のもらうベイを選んでいる間も、絶えず隣りの家に気をとられていた。そのときの私のおずおずした目にも、それはまあ何んとうす汚《よご》れて、みじめに見えたことか。それは私が緒方にさえもその家が昔の自分の家だったことを口に出せずにいた位だった。
「お隣りは何んだい?」私は漸《ようや》っとためらいがちに訊《き》いてみた
「ふふ……」緒方はいかにも早熟《ませ》たような薄笑いをした。
 それから彼はちらりと自分の老父の方を偸《ぬす》み見ながら、私にそっと耳打ちをした。
「お妾《めかけ》さんの家だ。」
 私はその思いがけない言葉をきくと、不意と、何か悲しい目つきをした若い女の人の姿を浮べた。それは私の方でも大へん好きになれそうだし、向うでも私のことを蔭ではかわいがってくれているのに、その境遇のために何とはなしに私に近づけないでいる、あのおよんちゃんという小さなおばさんに似た、それよりももっともっと美しい人だった。……私は何かもう居て
前へ 次へ
全82ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング