れながら、半ば開いた硝子窓《ガラスまど》ごしに、廊下に立ったままでいる私の母の方へ、ときどき救いを求めるような目で見た。やっと頭の禿《は》げた、ちょぼ髭《ひげ》の、人の好さそうな受持の先生が来て、こんどは出欠を調べるために、生徒の名を順々に読み上げてゆく。それがまた私には死ぬような苦しみだった。自分の苗字《みょうじ》が呼ばれても、私は一ぺんでもってそれに返事をした事はなかった。私はどういうわけか、父とは異《ちが》った苗字で呼ばれることになったので、その新しい苗字を忘れまいとすればするほど、いざと云う時になってそれをけろりと忘れていた。そんなとき、私はふいと窓のそとの母の方を見ると、母がはらはらしながら、私に手ぶりで合図をしている。私はやっと先生が同じ名を何度も繰り返しながら、自分の方を見下ろしているのに気がつき、はじめてはっとしてそれにおずおずと返事をするのだった。
 学校からの帰りみち、母と子とはよくこんな会話をし合った。
「もう明日からは一人で学校へお出《いで》……」
「うん」
「……いいかい、お前の苗字を忘れるんじゃないよ……」
「うん……」私は自分にどうしてそんな父とは異った苗
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