所の水の様子を見にやらされた弟子の佐吉は、膝《ひざ》の上まで水に浸ってじゃぶじゃぶやりながら、外へ出ていった。
その間に母は私にすっかり避難をする支度《したく》をさせた。最後まで私が手離さないでいた玉網も、とうとう父に取り上げられた。そうやって父や母などに一しょにいだすと、一人でいたときはあれほど平気でいられた私は、俄《にわ》かにわけの分からない恐怖のなかへ引きずり込まれてしまった。そうして一度無性に怯《おび》え出してしまうと、幼い私のなかの、大人の恐怖は、もう私一人だけでは手に負えなかった。
一方、いままではちゃんと間を隔《お》いて鳴っていた近所の半鐘の方も、そのとき突然自分の立てつづけている音に怯え出しでもしたかのように、急に物狂おしく鳴り出していた。
それを聞いて一層私が怯えるので、最初は父は溝《みぞ》の多い路地を抜けたところまで私達に附添ってくる積りだったのに、とうとう母と、佐吉に背負われた私とについて、全く水の無くなる土手上まで来なければならなかった。土手の上は、私達のような避難者で一ぱいだった。父は大川端《おおかわばた》へ行って、狂おしいように流れている水の様子を眺め
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