れながら、半ば開いた硝子窓《ガラスまど》ごしに、廊下に立ったままでいる私の母の方へ、ときどき救いを求めるような目で見た。やっと頭の禿《は》げた、ちょぼ髭《ひげ》の、人の好さそうな受持の先生が来て、こんどは出欠を調べるために、生徒の名を順々に読み上げてゆく。それがまた私には死ぬような苦しみだった。自分の苗字《みょうじ》が呼ばれても、私は一ぺんでもってそれに返事をした事はなかった。私はどういうわけか、父とは異《ちが》った苗字で呼ばれることになったので、その新しい苗字を忘れまいとすればするほど、いざと云う時になってそれをけろりと忘れていた。そんなとき、私はふいと窓のそとの母の方を見ると、母がはらはらしながら、私に手ぶりで合図をしている。私はやっと先生が同じ名を何度も繰り返しながら、自分の方を見下ろしているのに気がつき、はじめてはっとしてそれにおずおずと返事をするのだった。
 学校からの帰りみち、母と子とはよくこんな会話をし合った。
「もう明日からは一人で学校へお出《いで》……」
「うん」
「……いいかい、お前の苗字を忘れるんじゃないよ……」
「うん……」私は自分にどうしてそんな父とは異った苗字がついているのか訊《き》こうともせずに、まるで自分の運命そのもののように、それをそのまま鵜呑《うの》みにしようと努力していた。

 そんな或る日、きょうは学校の前までで好いからと言って附いて来て貰った母と一緒に、私は運動場の入口に近いところで、始業の鐘のなるまで、皆がわあわあ云いながら追っかけごっこをしたり、環《わ》になって遊んでいるのを、ただもう上気したようになって見ていた。
 そのとき、数人の少女たちがその入口の方へ笑いさざめきながら、互に肩に手をかけあって、走って来た。そうして走りながら、みんなでくっくっと云って笑っていた。そのなかの少女の一人が、ふと彼女たちの前にいる私の母に気がつくと、急にその群から離れて、母のそばへ来て娘らしいお辞儀をした。それはおもいがけずお竜ちゃんだった。彼女はまだ何処《どこ》か笑いに揺すぶられているような少女らしい身ぶりで、母と立ち話をしていた。その話の間、一遍だけちらっと私のいる方をふり向いたが、――それに気がついて私がほほ笑《え》みかけようか、どうしようかと迷っているうちに、にこりともしないで、再び母の方へ向いて、話しつづけていた。……
「お竜ち
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