のT君のところへ電話をかけた。T君はすぐ私のいる店へ来ると言った。そうして私がまだ一杯のオレンジエードを飲んでしまわないうちに、そのT君が元気よくはいって来た。彼はベレ帽をかぶり、なんだか象の皮のような外套《がいとう》を着込んでいた。
 それから私たちは薄ぐらい山手通りを、狭い坂を上ったり下りたりしながら、小さなホテルから小さなホテルへと歩き廻っていた。しかし私の気に入ったホテルはひとつも無かった。私たちは再び中山手通りへ出た。しかしそのだだ広いだけ、かえって薄ぐらい感じのする電車通りには、ほとんど人影がなかった。T君が突然立ち止まった。そうして電車通りの向う側にある一つの赤ちゃけた小ぢんまりした建物を指さした。その家の上の、煤《すす》けたなりに白白とした看板には、
 HOTEL ESSOYAN[#「HOTEL ESSOYAN」は斜体]
 という横文字が、建物と同じような赤ちゃけた色で描かれてあるのが、ぼんやりと読めた。遠くからそれを一目見たきりで、その小さなホテルは私の気に入った。――と見ると、その電車通りに面した二階の窓の一つが開かれていて、それが細長い光りを暗い鋪道《ほどう》の上にくっきりと落していた。そしてその窓からは、逆光線を浴びているので、年よりなのか若い女なのか見当のつかない、そして髪の毛だけがきらきらと金色に光っている、一つの女の顔が、そのホテルの方へと電車の線路を横切りつつある私たちの方を窺《うかが》うようにしていたが――それはちょっと無気味な感じだった――私たちがその窓の下までくると、向うでも私たちを恐れるかのように、その窓は閉されてしまった。
 私たちは小さな石段を昇り、そこのベルを押した。しかし、いつまでも、誰も出て来そうな気配がしない。そこでT君が再びベルを押したり、ノッブを廻してみたりしている間、私は石段を下りて、もう一度それがホテルであるかどうかを確かめるため、さっきの看板をふり仰いで見た。そうしてその赤ちゃけた横文字をホテル・エソワイアンと読みにくそうに口の中で発音しながら、今度はその大きな横文字の下方に、ずっと小さな字で TEL.[#「TEL.」は斜体]と描かれてあるのまで認めた。しかしその電話番号のあるべき場所は空虚のまんまだった。そしてそこだけが気のせいか他処より一そう白白と見えるのは、そこに最近まで書かれてあった電話番号がいま
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