をそらしながら、ふとその眼を私がときどきふんづける小さな軟《やわら》かなものの方へ持って行くと、それが三鞭酒《シャンパン》の栓《せん》らしいことを認めた。ははあ、ゆうべは此処でも三鞭酒を抜いたんだな?……こいつらが騒いだのかしら? それにしてもこいつらは一体何者だろう、私にはとんと得体が知れない。……と、そんなことを考えながら、私が靴でその小さな栓を踏みにじっていると、食堂のドアを開《あ》けてのっそりと、まだこのホテルで私の見かけたことのない、何処やらちょっとクライブ・ブルックめいた中年の紳士が、寝ぼけたような顔をして、這入《はい》って来た。そうしてなんだか寒そうに手を揉《も》みながら、女たちに何か私にはわからない冗談を言っているらしかったが、そこへ丁度、ボオイが、私のためにポリッジを運んできたので、そいつをつかまえて、「朝飯出来ますか?」とぎごちない英語で聞いていた。支那人のボオイはますます仏頂面《ぶっちょうづら》をしだして、その男のために中央の円卓子の上を不機嫌《ふきげん》そうに片づけ始めた。それを見ると私はなんだか急に微笑がしたくなった。そうして私のテエブルに砂糖がないことに気がついて、それをボオイに言おうと思っていた私は、ついその男の方に気をとられて、それを言いそびれていた。……そのうちにどうしてだか突然、私には、この食堂の隅々《すみずみ》にまで漂っていそうな、陰惨というほどのものではないけれど、何かしら重苦しい、澱《よど》んだ空気が呼吸苦《いきぐる》しく覚えられだした。そしてそれをあたかも具体化したように、私の咽喉はへんにえがらっぽくなり出した。どうもすこし扁桃腺《へんとうせん》をやられたらしい。そうして砂糖なしのポリッジは大へん不味《まず》かった。

 私はこのホテル・エソワイアンには、四日ばかり泊った。三日目ごろからますますこのホテルの中の噎《むせ》ぶような重い空気が私には我慢しきれなくなった。何ということなしに世間の空気が息苦しくなったあまりに、その息ぬきにわざとこんな世間から離れたようなホテルを選んで泊ったのであるけれど、このホテルの中のそういう空気は私を一そう窒息させそうにした。私はもっと新鮮な、そして気持のいい空気がほしくなった。私はとうとう須磨《すま》の方へ宿を替えることにした。
 そうして私がこのホテルを立ち去ろうとする前に、最後に私の経験
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