、私の背中合わせの部屋から、タイプライタアの何かにじゃれているような音が聞えてきた。が、それはだんだんいらいらしたような音に変りながら、すぐ止《や》んでしまった。私はゆうべこのホテルに着くなりすぐ目に入れたところの、廊下の隅《すみ》にほうり出されていた、錆《さ》びかかったようなタイプライタアを思い出した。――それにしても、一体いまは何時ぐらいなのか少しも分らない。まだ朝飯は食わしてくれるのかしらと思いながら、私はボオイを呼ぶために、窓とは反対の側の、ドアを開《あ》けてみた。食堂は私の部屋と隣り合わせになっているらしい。そこからは途切れ途切れな話し声に雑《まじ》ってときどき皿にぶつかるスプーンやナイフの音が聞えてくる。……しかしそれは誰かがまだ朝飯を食べているのか、それとももう昼飯を食べ出しているのか、わからない。……どうも具合がへんだから、私はドアを開け放しにしておいて、もう食堂からボオイが出て来そうなものだと待ち伏せていた。
 やっと食堂からボオイが姿を現わした。支那人《しなじん》らしかった。私は彼が日本語を解するのかどうかを知らなかったので、英語と日本語をまぜこぜにしながら、
「Brekfast ――まだ出来る?」と聞いた。
「どうぞ――」と言ってボオイは空皿《あきざら》をもった手で食堂の入口を示したが、そのまま無愛想にコック場の方へ行ってしまった。
 私はなんだか一人きりでそんな食堂の中へはいって行くのが気づまりだったので、ボオイが再び皿を運んで来ながら私の部屋の前を通るのを待っていた。丁度その廊下の映っている鏡に向ってネクタイを何度も結び直しながら、あたかもそれがために何時《いつ》までも愚図愚図しているかのように装って。
 やっとのことで再び姿を現わしたボオイの跡にくっついて食堂の中へはいってみると、食堂と云うのもほんの名ばかりであって、二つの部屋をぶち抜いて、そこに安っぽい花模様のあるクロオスを掛けた卓子《テエブル》が五つか六つ置いてあるきりだった。中央の大きな卓子にはホテルの主人夫婦が珈琲《コオフィイ》を飲んでいた。そうして向うの壁ぎわの隅の小さな卓子には、青色のブラウスを着て、ブロンドの髪をした十八九の娘がひとりと、それから中庭に面して一段低くなったヴェランダのようなところに卓子が二つ置いてあったけれど、その一つには、黒っぽい着物を着たふたりの女――栗
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