つにでも、――住むことが出来ておったならば、彼に似たような詩人にもなれていただろうと思うのは。私にはたった一つの部屋が(屋根裏の明るい部屋が)ありさえすれば好かったろうに。そうしたら、私はそこで自分の古い身のまわりの物や、家族の肖像や、書物だのと一しょに暮しただろう。それから私は椅子や、花や、犬や、石ころの多い小径のための丈夫なステッキも持ったろう。そしてその他には何ももう持たなかったろう。……が、すべてはそれとこんなにも異ってしまっているのだ。その訳は神様だけが知っていられる。私の古い家具類は、私が預かって置いて貰ってある或る納屋《なや》の中で朽ちつつあるのだ。そして私自身はと云えば、ああ私にはこのように屋根さえなく、雨は私の眼のなかにも降るのだ。」
 まあ、この世のこんなところに、――こうして自分の気に入った屋根裏部屋をしばらくなりと借りられて、椅子や花や犬などと気持よさそうに暮している、恐ろしく出来損いのマルテといった恰好の自分、――それにしたって、その気持のいい何もかもがいつまでも自分のものであるわけのものではなく、そんなフランシス・ジャムのような詩人になり切れそうな日も、また何と遠いことだ……
 が、いまだけはともかくもこうした幸福そうな私達、――この私達には、現在、花だって、犬だって、少しも事は欠かない。――例えば、ついこの間、私がすぐ裏の樅《もみ》の木かげにちょっと目につかないくらいに小さな青い花が一面に咲いているのを見つけて、何の花だか知らないけれどいかにも可憐《かれん》だったので、その見本のように一輪だけ摘んで得意そうに持ち帰ってきたら、女房の奴に「あなたが菫《すみれ》の花なんぞを摘んできて。それにうちの庭にだってたくさん咲いているじゃあないの?」と笑われた。なるほどそう言われて見ると、わが庭の隅々にもそれと同じ可憐な花が一ぱい咲いているのに漸と気がついた。それにしても菫の花をいままで少しも知らずにいた私の迂濶《うかつ》さ!……だがそんな迂濶なところのある私だけに、いま、――こんな人生のこんな瞬間に、――菫の花みたいなものまでもこうやってしみじみと見て楽しんでいられるのだからな、と誰に向ってともなく負け惜しむ。
 夕方、女房が食事の支度をし出す頃になると、何処から来るのか、エアデルテリヤの雑種らしい大きな犬が姿をあらわす。人恋しげな女房がそんな犬まで歓待して、家の中へ入れてやるものだから、私達が食事の間、私達の傍に仲間の一人といった恰好で坐っている。しかし、私達が分けてやるものがもう何もなさそうなのを見すますと、私達のこわごわしてやろうとする愛撫には目もくれないで、さっさと外へ飛び出していってしまう現金な奴。もうすこし一しょに居て、こうやってファイア・プレェスの前で私がまだいくぶん独身者のように、ときどき一人ごとなど言いながら手紙を書き、女房が心もち物足りなそうな顔をして、編み物をしている傍で、ちょっとの間だけでも、こんな少し淋しすぎる一家|団欒《だんらん》を賑《にぎ》わせていてくれたら好かりそうなものだのに。



底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社
   1969(昭和44)年11月12日発行
   1992(平成4)年5月20日16刷
入力:横尾、近藤
校正:松永正敏
2003年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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