へてゐる。僕の肱の下には、いつも同じ頁を開いてゐる一册の本がある。そしてその頁にはこんな怪物が描き出されてある。――彼は自分にも支へられないくらゐに重い頭蓋骨を持つてゐる。そしていつもそれを彼のまはりに轉がしてゐる。彼はときどき腮《あご》をあけては、舌で、自分の呼吸で濕つた草を剥《も》ぎ取る。そして一度、彼は自分の足を知らずに食べてしまふ。――そしてこの怪物くらゐ、僕になつかしく思はれるものはなかつたのだ。
 しかし人は苦痛の中にそのやうにしてより[#「より」に傍点]長く生きることは不可能な事だ。僕はそれを知つてゐた。それなのに、何故、僕は自分をその苦痛から拔け出させようとしないでゐたのか。僕は實は自分でもすこしも知らずに待つてゐた[#「待つてゐた」に傍点]のだ。――彼女の愛してゐるのが槇ではなくて僕であることを、友人の一人が愕いて僕にそれを知らせにくることを、一つの奇蹟を、僕は待つてゐたのだ。
 ある夜の明方、僕は一つの夢を見た。僕は槇と二人で、上野公園の中らしい芝生の上にあふむけになつて眠つてゐる。ふと僕は眼をさます。槇はまだよく眠つてゐる。僕は、芝生の向うから、いつのまにか彼女がもう一人のウエイトレスと現はれ、何か小聲に話しながら、僕等に近づいてくるのを見る。彼女は相手の女に、彼女の愛してゐるのは實は僕であることを、そして槇が僕の手紙を渡してくれたのかと思つたら、それは槇自身の手紙であつたことを話してゐる。そして彼女等は、僕等に少しも氣づかずに、僕等の前を通り過ぎる。僕は異常な幸福を感じる。僕は槇をそつと見る。槇はいつの間にか眼をあけてゐる。
「よく眠つてゐたね」僕が云ふ。
「僕がかい?」槇は變な顏をする。「眠つてゐたのは君ぢやないか」
 僕はいつの間にか眼をつぶつてゐる。「そら、また眠つてしまふ」さういふ槇の聲を聞きながら僕は再びぐんぐんと眠つて行く。
 それから僕はベツドの上で本當に眼をさました。そしてその夢ははつきりと僕に、自分でも氣づかないでゐた奇蹟の期待を知らせた。その奇蹟の期待は、再び僕の中に苦痛を喚び起しながら、それによつて一そう強まる。そしてそれは夜の孤獨の堪へがたさと協力して、無理に僕をカフエ・シヤノアルに引きずつて行つた。
 カフエ・シヤノアル。そこでは何も變つてゐない。同じやうな音樂、同じやうな會話、同じやうに汚れてゐるテイブル。僕はさう
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