ネ風に感じさせるに過ぎないであろうか?
[#地から1字上げ]十一月二十日
私はこれまで書いて来たノオトをすっかり読みかえして見た。私の意図したところは、これならまあどうやら自分を満足させる程度には書けているように思えた。
が、それとは別に、私はそれを読み続けている自分自身の裡《うち》に、その物語の主題をなしている私達自身の「幸福」をもう完全には味わえそうもなくなっている、本当に思いがけない不安そうな私の姿を見出しはじめていた。そうして私の考えはいつかその物語そのものを離れ出していた。「この物語の中のおれ達はおれ達に許されるだけのささやかな生の愉《たの》しみを味わいながら、それだけで独自《ユニイク》にお互を幸福にさせ合えると信じていられた。少くともそれだけで、おれはおれの心を縛りつけていられるものと思っていた。――が、おれ達はあんまり高く狙い過ぎていたのであろうか? そうして、おれはおれの生の欲求を少し許《ばか》り見くびり過ぎていたのであろうか? そのために今、おれの心の縛がこんなにも引きちぎられそうになっているのだろうか?……」
「可哀そうな節子……」と私は机にほうり出したノオトをそのまま片づけようともしないで、考え続けていた。「こいつはおれ自身が、気づかぬようなふりをしていたそんなおれの生の欲求を沈黙の中に見抜いて、それに同情を寄せているように見えてならない。そしてそれが又こうしておれを苦しめ出しているのだ。……おれはどうしてこんなおれの姿をこいつに隠し了《おお》せることが出来なかったのだろう? 何んておれは弱いのだろうなあ……」
私は、明りの蔭になったベッドにさっきから目を半ばつぶっている病人に目を移すと、殆ど息づまるような気がした。私は明りの側を離れて、徐《しず》かにバルコンの方へ近づいて行った。小さな月のある晩だった。それは雲のかかった山だの、丘だの、森などの輪廓《りんかく》をかすかにそれと見分けさせているきりだった。そしてその他の部分は殆どすべて鈍い青味を帯びた闇の中に溶け入っていた。しかし私の見ていたものはそれ等のものではなかった。私は、いつかの初夏の夕暮に二人で切ないほどな同情をもって、そのまま私達の幸福を最後まで持って行けそうな気がしながら眺め合っていた、まだその何物も消え失せていない思い出の中の、それ等の山や丘や森などをまざまざと心に蘇《よみがえ》らせていたのだった。そして私達自身までがその一部になり切ってしまっていたようなそういう一瞬時の風景を、こんな具合にこれまでも何遍となく蘇らせたので、それ等のものもいつのまにか私達の存在の一部分になり、そしてもはや季節と共に変化してゆくそれ等のものの、現在の姿が時とすると私達には殆ど見えないものになってしまう位であった。……
「あのような幸福な瞬間をおれ達が持てたということは、それだけでももうおれ達がこうして共に生きるのに値したのであろうか?」と私は自分自身に問いかけていた。
私の背後にふと軽い足音がした。それは節子にちがいなかった。が、私はふり向こうともせずに、そのままじっとしていた。彼女もまた何も言わずに、私から少し離れたまま立っていた。しかし、私はその息づかいが感ぜられるほど彼女を近ぢかと感じていた。ときおり冷たい風がバルコンの上をなんの音も立てずに掠《かす》め過ぎた。何処か遠くの方で枯木が音を引きむしられていた。
「何を考えているの?」とうとう彼女が口を切った。
私はそれにはすぐ返事をしないでいた。それから急に彼女の方へふり向いて、不確かなように笑いながら、
「お前には分っているだろう?」と問い返した。
彼女は何か罠《わな》でも恐れるかのように注意深く私を見た。それを見て、私は、
「おれの仕事のことを考えているのじゃないか」とゆっくり言い出した。「おれにはどうしても好い結末が思い浮ばないのだ。おれはおれ達が無駄に生きていたようにはそれを終らせたくはないのだ。どうだ、一つお前もそれをおれと一しょに考えて呉れないか?」
彼女は私に微笑《ほほえ》んで見せた。しかし、その微笑みはどこかまだ不安そうであった。
「だってどんな事をお書きになったんだかも知らないじゃないの」彼女は漸《や》っと小声で言った。
「そうだっけなあ」と私はもう一度不確かなように笑いながら言った。「それじゃあ、そのうちに一つお前にも読んで聞かせるかな。しかしまだ、最初の方だって人に読んで聞かせるほど纏《まと》まっちゃいないんだからね」
私達は部屋の中へ戻った。私が再び明りの側に腰を下ろして、其処にほうり出してあるノオトをもう一度手に取り上げて見ていると、彼女はそんな私の背後に立ったまま、私の肩にそっと手をかけながら、それを肩越しに覗き込むようにしていた。私はいきなりふり向いて、
「お前はもう寝た方がいいぜ」と乾いた声で言った。
「ええ」彼女は素直に返事をして、私の肩から手を少しためらいながら放すと、ベッドに戻って行った。
「なんだか寝られそうもないわ」二三分すると彼女がベッドの中で独り言のように言った。
「じゃ、明りを消してやろうか?……おれはもういいのだ」そう言いながら、私は明りを消して立ち上ると、彼女の枕もとに近づいた。そうしてベッドの縁に腰をかけながら、彼女の手を取った。私達はしばらくそうしたまま、暗《やみ》の中に黙り合っていた。
さっきより風がだいぶ強くなったと見える。それはあちこちの森から絶えず音を引き※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》いでいた。そしてときどきそれをサナトリウムの建物にぶっつけ、どこかの窓をばたばた鳴らしながら、一番最後に私達の部屋の窓を少しきしらせた。それに怯《おび》えでもしているかのように、彼女はいつまでも私の手をはなさないでいた。そうして目をつぶったまま、自分の裡《うち》の何かの作用《はたらき》に一心になろうとしているように見えた。そのうちにその手が少し緩んできた。彼女は寝入ったふりをし出したらしかった。
「さあ、今度はおれの番か……」そんなことを呟きながら、私も彼女と同じように寝られそうもない自分を寝つかせに、自分の真っ暗な部屋の中へはいって行った。
[#地から1字上げ]十一月二十六日
この頃、私はよく夜の明けかかる時分に目を覚ます。そんなときは、私は屡々《しばしば》そっと起き上って、病人の寝顔をしげしげと見つめている。ベッドの縁や壜《びん》などはだんだん黄ばみかけて来ているのに、彼女の顔だけがいつまでも蒼白い。「可哀そうな奴だなあ」それが私の口癖にでもなったかのように自分でも知らずにそう言っているようなこともある。
けさも明け方近くに目を覚ました私は、長い間そんな病人の寝顔を見つめてから、爪先き立って部屋を抜け出し、サナトリウムの裏の、裸過ぎる位に枯れ切った林の中へはいって行った。もうどの木にも死んだ葉が二つ三つ残って、それが風に抗《あらが》っているきりだった。私がその空虚な林を出はずれた頃には、八ヶ岳の山頂を離れたばかりの日が、南から西にかけて立ち並んでいる山々の上に低く垂れたまま動こうともしないでいる雲の塊りを、見るまに赤あかと赫《かがや》かせはじめていた。が、そういう曙《あけぼの》の光も地上にはまだなかなか届きそうになかった。それらの山々の間に挟まれている冬枯れた森や畑や荒地は、今、すべてのものから全く打ち棄てられてでもいるような様子を見せていた。
私はその枯木林のはずれに、ときどき立ち止まっては寒さに思わず足踏みしながら、そこいらを歩き廻っていた。そうして何を考えていたのだか自分でも思い出せないような考えをとつおいつしていた私は、そのうち不意に頭を上げて、空がいつのまにか赫きを失った暗い雲にすっかり鎖《とざ》されているのを認めた。私はそれに気がつくと、ついさっきまでそれをあんなにも美しく焼いていた曙の光が地上に届くのをそれまで心待ちにしてでもいたかのように、急になんだか詰まらなそうな恰好《かっこう》をして、足早にサナトリウムに引返して行った。
節子はもう目を覚ましていた。しかし立ち戻った私を認めても、私の方へは物憂げにちらっと目を上げたきりだった。そしてさっき寝ていたときよりも一層蒼いような顔色をしていた。私が枕もとに近づいて、髪をいじりながら額に接吻しようとすると、彼女は弱々しく首を振った。私はなんにも訊《き》かずに、悲しそうに彼女を見ていた。が、彼女はそんな私をと云うよりも、寧《むし》ろ、そんな私の悲しみを見まいとするかのように、ぼんやりした目つきで空《くう》を見入っていた。
夜
何も知らずにいたのは私だけだったのだ。午前の診察の済んだ後で、私は看護婦長に廊下へ呼び出された。そして私ははじめて節子がけさ私の知らない間に少量の喀血《かっけつ》をしたことを聞かされた。彼女は私にはそれを黙っていたのだ。喀血は危険と云う程度ではないが、用心のためにしばらく附添看護婦をつけて置くようにと、院長が言い付けて行ったというのだ。――私はそれに同意するほかはなかった。
私は丁度空いている隣りの病室に、その間だけ引き移っていることにした。私はいま、二人で住んでいた部屋に何処から何処まで似た、それでいて全然見知らないような感じのする部屋の中に、一人ぼっちで、この日記をつけている。こうして私が数時間前から坐っているのに、どうもまだこの部屋は空虚のようだ。此処にはまるで誰もいないかのように、明りさえも冷たく光っている。
[#地から1字上げ]十一月二十八日
私は殆ど出来上っている仕事のノオトを、机の上に、少しも手をつけようとはせずに、ほうり出したままにして置いてある。それを仕上げるためにも、しばらく別々に暮らした方がいいのだと云うことを病人には云い含めて置いたのだ。
が、どうしてそれに描いたような私達のあんなに幸福そうだった状態に、今のようなこんな不安な気持のまま、私一人ではいって行くことが出来ようか?
私は毎日、二三時間|隔《お》きぐらいに、隣りの病室に行き、病人の枕もとにしばらく坐っている。しかし病人に喋舌《しゃべ》らせることは一番好くないので、殆んどものを言わずにいることが多い。看護婦のいない時にも、二人で黙って手を取り合って、お互になるたけ目も合わせないようにしている。
が、どうかして私達がふいと目を見合わせるようなことがあると、彼女はまるで私達の最初の日々に見せたような、一寸気まりの悪そうな微笑《ほほえ》み方を私にして見せる。が、すぐ目を反らせて、空《くう》を見ながら、そんな状態に置かれていることに少しも不平を見せずに、落着いて寝ている。彼女は一度私に仕事は捗《はかど》っているのかと訊いた。私は首を振った。そのとき彼女は私を気の毒がるような見方をして見た。が、それきりもう私にそんなことは訊かなくなった。そして一日は、他の日に似て、まるで何事もないかのように物静かに過ぎる。
そして彼女は私が代って彼女の父に手紙を出すことさえ拒んでいる。
夜、私は遅くまで何もしないで机に向ったまま、バルコンの上に落ちている明りの影が窓を離れるにつれてだんだん幽《かす》かになりながら、暗《やみ》に四方から包まれているのを、あたかも自分の心の裡さながらのような気がしながら、ぼんやりと見入っている。ひょっとしたら病人もまだ寝つかれずに、私のことを考えているかも知れないと思いながら……
[#地から1字上げ]十二月一日
この頃になって、どうしたのか、私の明りを慕ってくる蛾がまた殖え出したようだ。
夜、そんな蛾がどこからともなく飛んで来て、閉め切った窓硝子《まどガラス》にはげしくぶつかり、その打撃で自ら傷つきながら、なおも生を求めてやまないように、死に身になって硝子に孔《あな》をあけようと試みている。私がそれをうるさがって、明りを消してベッドにはいってしまっても、まだしばらく物狂わしい羽搏《はばた》きをしているが、次第にそれが衰え、ついに何処かにしがみついたきりになる。そんな翌朝、私はかならずその窓
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