xッドの上に起き直っていた。そして掛布の上に、父のもってきた菓子函《かしばこ》や他の紙包を一ぱいに拡げていた。それは少女時代彼女の好きだった、そして今でも好きだと父の思っているようなものばかりらしかった。私を見ると、彼女はまるで悪戯《いたずら》を見つけられた少女のように、顔を赧《あか》くしながら、それを片づけ、すぐ横になった。
私はいくぶん気づまりになりながら、二人からすこし離れて、窓ぎわの椅子に腰かけた。二人は、私のために中断されたらしい話の続きを、さっきよりも低声《こごえ》で、続け出した。それは私の知らない馴染みの人々や事柄に関するものが多かった。そのうちの或る物は、彼女に、私の知り得ないような小さな感動をさえ与えているらしかった。
私は二人のさも愉《たの》しげな対話を何かそういう絵でも見ているかのように、見較べていた。そしてそんな会話の間に父に示す彼女の表情や抑揚のうちに、何か非常に少女らしい輝きが蘇《よみがえ》るのを私は認めた。そしてそんな彼女の子供らしい幸福の様子が、私に、私の知らない彼女の少女時代のことを夢みさせていた。……
ちょっとの間、私達が二人きりになった時、私は彼女に近づいて、揶揄《からか》うように耳打ちした。
「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ」
「知らないわ」彼女はまるで小娘のように顔を両手で隠した。
※[#アステリズム、1−12−94]
父は二日滞在して行った。
出発する前、父は私を案内役にして、サナトリウムのまわりを歩いた。が、それは私と二人きりで話すのが目的だった。空には雲ひとつない位に晴れ切った日だった。いつになくくっきりと赭《あか》ちゃけた山肌を見せている八ヶ岳などを私が指して示しても、父はそれにはちょっと目を上げるきりで、熱心に話をつづけていた。
「ここはどうもあれの身体には向かないのではないだろうか? もう半年以上にもなるのだから、もうすこし良くなって居そうなものだが……」
「さあ、今年の夏は何処も気候が悪かったのではないでしょうか? それにこういう山の療養所なんぞは冬がいいのだと云いますが……」
「それは冬まで辛抱して居られればいいのかも知れんが……しかしあれには冬まで我慢できまい……」
「しかし自分では冬も居る気でいるようですよ」私はこういう山の孤独がどんなに私達の幸福を育《はぐく》んでいて呉れるかと云うことを、どうしたら父に理解させられるだろうかともどかしがりながら、しかしそういう私達のために父の払っている犠牲のことを思えば何んともそれを言い出しかねて、私達のちぐはぐな対話を続けていた。「まあ、折角山へ来たのですから、居られるだけ居て見るようになさいませんか?」
「……だが、あなたも冬迄一緒に居て下されるのか?」
「ええ、勿論居ますとも」
「それはあなたには本当にすまんな。……だが、あなたは、いま仕事はして居られるのか?」
「いいえ……」
「しかし、あなたも病人にばかり構って居らずに、仕事も少しはなさらなければいけないね」
「ええ、これから少し……」と私は口籠《くちごも》るように言った。
――「そうだ、おれは随分長いことおれの仕事を打棄《うっちゃ》らかしていたなあ。なんとかして今のうちに仕事もし出さなけれあいけない」……そんなことまで考え出しながら、何かしら私は気持が一ぱいになって来た。それから私達はしばらく無言のまま、丘の上に佇《たたず》みながら、いつのまにか西の方から中空にずんずん拡がり出した無数の鱗《うろこ》のような雲をじっと見上げていた。
やがて私達はもうすっかり木の葉の黄ばんだ雑木林の中を通り抜けて、裏手から病院へ帰って行った。その日も、人夫が二三人で、例の丘を切り崩していた。その傍を通り過ぎながら、私は「何んでもここへ花壇をこしらえるんだそうですよ」といかにも何気なさそうに言ったきりだった。
夕方停車場まで父を見送りに行って、私が帰って来て見ると、病人はベッドの中で身体を横向きにしながら、激しい咳にむせっていた。こんなに激しい咳はこれまで一度もしたことはないくらいだつた。その発作がすこし鎮まるのを待ちながら、私が、
「どうしたんだい?」と訊ねると、
「なんでもないの。……じき止まるわ」病人はそれだけやっと答えた。「その水を頂戴」
私はフラスコからコップに水をすこし注いで、それを彼女の口に持って行ってやった。彼女はそれを一口飲むと、しばらく平静にしていたが、そんな状態は短い間に過ぎ、又も、さっきよりも激しい位の発作が彼女を襲った。私は殆んどベッドの端までのり出して身もだえしている彼女をどうしようもなく、ただこう訊《き》いたばかりだった。
「看護婦を呼ぼうか?」
「…………」
彼女はその発作が鎮まっても、いつまでも苦しそうに身体をねじらせたまま、両手で顔を蔽《おお》いながら、ただ頷《うなず》いて見せた。
私は看護婦を呼びに行った。そして私に構わず先きに走っていった看護婦のすこし後から病室へはいって行くと、病人はその看護婦に両手で支えられるようにしながら、いくぶん楽そうな姿勢に返っていた。が、彼女はうつけたようにぼんやりと目を見ひらいているきりだった。咳の発作は一時止まったらしかった。
看護婦は彼女を支えていた手を少しずつ放しながら、
「もう止まったわね。……すこうし、そのままじっとしていらっしゃいね」と言って、乱れた毛布などを直したりしはじめた。「いま注射を頼んで来て上げるわ」
看護婦は部屋を出て行きながら、何処に居ていいか分らなくなってドアのところに棒立ちに立っていた私に、ちょっと耳打ちした。「すこし血痰を出してよ」
私はやっと彼女の枕元に近づいて行った。
彼女はぼんやりと目は見ひらいていたが、なんだか眠っているとしか思えなかった。私はその蒼ざめた額にほつれた小さな渦を巻いている髪を掻き上げてやりながら、その冷たく汗ばんだ額を私の手でそっと撫でた。彼女はやっと私の温かい存在をそれに感じでもしたかのように、ちらっと謎のような微笑を脣《くちびる》に漂わせた。
※[#アステリズム、1−12−94]
絶対安静の日々が続いた。
病室の窓はすっかり黄色い日覆を卸《おろ》され、中は薄暗くされていた。看護婦達も足を爪立てて歩いた。私は殆んど病人の枕元に附きっきりでいた。夜伽《よとぎ》も一人で引き受けていた。ときどき病人は私の方を見て何か言い出しそうにした。私はそれを言わせないように、すぐ指を私の口にあてた。
そのような沈黙が、私達をそれぞれ各自の考えの裡に引っ込ませていた。が、私達はただ相手が何を考えているのかを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。そして私が、今度の出来事を恰《あたか》も自分のために病人が犠牲にしていて呉れたものが、ただ目に見えるものに変っただけかのように思いつめている間、病人はまた病人で、これまで二人してあんなにも細心に細心にと育て上げてきたものを自分の軽はずみから一瞬に打ち壊してしまいでもしたように悔いているらしいのが、はっきりと私に感じられた。
そしてそういう自分の犠牲を犠牲ともしないで、自分の軽はずみなことばかりを責めているように見える病人のいじらしい気持が、私の心をしめつけていた。そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人と共に愉《たの》しむようにして味わっている生の快楽――それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、――それは果して私達を本当に満足させ了《おお》せるものだろうか? 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか? ……
夜伽に疲れた私は、病人の微睡《まどろ》んでいる傍で、そんな考えをとつおいつしながら、この頃ともすれば私達の幸福が何物かに脅かされがちなのを、不安そうに感じていた。
その危機は、しかし、一週間ばかりで立ち退いた。
或る朝、看護婦がやっと病室から日覆を取り除けて、窓の一部を開け放して行った。窓から射し込んで来る秋らしい日光をまぶしそうにしながら、
「気持がいいわ」と病人はベッドの中から蘇《よみがえ》ったように言った。
彼女の枕元で新聞を拡げていた私は、人間に大きな衝動を与える出来事なんぞと云うものは却《かえ》ってそれが過ぎ去った跡は何んだかまるで他所《よそ》の事のように見えるものだなあと思いながら、そういう彼女の方をちらりと見やって、思わず揶揄《やゆ》するような調子で言った。
「もうお父さんが来たって、あんなに興奮しない方がいいよ」
彼女は顔を心持ち赧《あか》らめながら、そんな私の揶揄を素直に受け入れた。
「こんどはお父様がいらっしたって知らん顔をして居てやるわ」
「それがお前に出来るんならねえ……」
そんな風に冗談でも言い合うように、私達はお互に相手の気持をいたわり合うようにしながら、一緒になって子供らしく、すべての責任を彼女の父に押しつけ合ったりした。
そうして私達は少しもわざとらしくなく、この一週間の出来事がほんの何かの間違いに過ぎなかったような、気軽な気分になりながら、いましがたまで私達を肉体的ばかりでなく、精神的にも襲いかかっているように見えた危機を、事もなげに切り抜け出していた。少くとも私達にはそう見えた。……
或る晩、私は彼女の側で本を読んでいるうち、突然、それを閉じて、窓のところに行き、しばらく考え深そうに佇《たたず》んでいた。それから又、彼女の傍に帰った。私は再び本を取り上げて、それを読み出した。
「どうしたの?」彼女は顔を上げながら私に問うた。
「何んでもない」私は無造作にそう答えて、数秒時本の方に気をとられているような様子をしていたが、とうとう私は口を切った。
「こっちへ来てあんまり何もせずにしまったから、僕はこれから仕事でもしようかと考え出しているのさ」
「そうよ、お仕事をなさらなければいけないわ。お父様もそれを心配なさっていたわ」彼女は真面目な顔つきをして返事をした。「私なんかのことばかり考えていないで……」
「いや、お前のことをもっともっと考えたいんだ……」私はそのとき咄嗟《とっさ》に頭に浮んで来た或る小説の漠としたイデエをすぐその場で追い廻し出しながら、独り言のように言い続けた。「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」
「分るわ」彼女は自分自身の考えでも逐《お》うかのように私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、
「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と私を軽く遇《あしら》うように言い足した。
私はしかし、その言葉を率直に受取った。
「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。……が、今度の奴はお前にもたんと助力して貰わなければならないのだよ」
「私にも出来ることなの?」
「ああ、お前にはね、おれの仕事の間、頭から足のさきまで幸福になっていて貰いたいんだ。そうでないと……」
一人でぼんやりと考え事をしているのよりも、こうやって二人で一緒に考え合っているみたいな方が、余計自分の頭が活溌に働くのを異様に感じながら、私はあとからあとからと湧いてくる思想に押されでもするかのように、病室の中をいつか往ったり来たりし出していた。
「あんまり病人の側にばかりいるから、元気がなくなるのよ。……すこしは散歩でもしていらっしゃらない?」
「うん、おれも仕事をするとなりあ」と私は目を赫《かがや》かせながら、元気よく答えた。「
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