ワなかった、自分の女々しい心に何か後悔に似たものをはげしく感じながら……
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私は死者達を持つてゐる、そして彼等を立ち去るが儘にさせてあるが、
彼等が噂とは似つかず、非常に確信的で、
死んでゐる事にもすぐ慣れ、頗《すこぶ》る快活であるらしいのに
驚いている位だ。只お前――お前だけは帰つて
来た。お前は私を掠め、まはりをさ迷ひ、何物かに
衝《つ》き当る、そしてそれがお前のために音を立てて、
お前を裏切るのだ。おお、私が手間をかけて学んで得た物を
私から取除けて呉れるな。正しいのは私で、お前が間違つてゐるのだ、
もしかお前が誰かの事物に郷愁を催してゐるのだったら。我々はその事物を目の前にしてゐても、
それは此処に在るのではない。我々がそれを知覚すると同時に
その事物を我々の存在から反映させてゐるきりなのだ。
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[#地から1字上げ]十二月十八日
漸《ようや》く雪が歇《や》んだので、私はこういう時だとばかり、まだ行ったことのない裏の林を、奥へ奥へとはいって行って見た。ときどき何処かの木からどおっと音を立ててひとりでに崩れる雪の飛沫を浴びながら、私はさも面白そうに林から林へと抜けて行った。勿論、誰もまだ歩いた跡なんぞはなく、唯、ところどころに兎がそこいら中を跳ねまわったらしい跡が一めんに附いているきりだった。又、どうかすると雉子《きじ》の足跡のようなものがすうっと道を横切っていた……
しかし何処まで行っても、その林は尽きず、それにまた雪雲らしいものがその林の上に拡がり出してきたので、私はそれ以上奥へはいることを断念して途中から引っ返して来た。が、どうも道を間違えたらしく、いつのまにか私は自分自身の足跡をも見失っていた。私はなんだか急に心細そうに雪を分けながら、それでも構わずにずんずん自分の小屋のありそうな方へ林を突切って来たが、そのうちにいつからともなく私は自分の背後に確かに自分のではない、もう一つの足音がするような気がし出していた。それはしかし殆どあるかないか位の足音だった……
私はそれを一度も振り向こうとはしないで、ずんずん林を下りて行った。そうして私は何か胸をしめつけられるような気持になりながら、きのう読《よ》み畢《お》えたリルケの「レクヰエム」の最後の数行が自分の口を衝いて出るがままに任せていた。
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帰つて入らつしやるな。さうしてもしお前に我慢できたら、
死者達の間に死んでお出《いで》。死者にもたんと仕事はある。
けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
屡々遠くのものが私に助力をしてくれるやうに――私の裡で。
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[#地から1字上げ]十二月二十四日
夜、村の娘の家に招《よ》ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達が沢山はいり込んでくるような土地柄ゆえ、普通の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。
九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪《かれやぶ》の上に、何処からともなく、小さな光が幽《かす》かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝《いぶか》りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわして見ると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩《おお》うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……」
漸《や》っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。
「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「――だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許《ばか》りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。
[#地から1字上げ]十二月三十日
本当に静かな晩だ。私は今夜もこんなかんがえがひとりでに心に浮んで来るがままにさせていた。
「おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないようだ。そんな幸福だとか何んだとか云うような事は、嘗《か》つてはあれ程おれ達をやきもきさせていたっけが、もう今じゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。反ってそんなこの頃のおれの方が余っ程幸福の状態に近いのかも知れない。まあ、どっちかと云えば、この頃のおれの心は、それに似てそれよりは少し悲しそうなだけ、――そうかと云ってまんざら愉《たの》しげでないこともない。……こんな風におれがいかにも何気なさそうに生きていられるのも、それはおれがこうやって、なるたけ世間なんぞとは交じわらずに、たった一人で暮らしている所為《せい》かも知れないけれど、そんなことがこの意気地なしのおれに出来ていられるのは、本当にみんなお前のお蔭だ。それだのに、節子、おれはこれまで一度だっても、自分がこうして孤独で生きているのを、お前のためだなんぞとは思った事がない。それはどのみち自分一人のために好き勝手な事をしているのだとしか自分には思えない。或はひょっとしたら、それも矢っ張お前のためにはしているのだが、それがそのままでもって自分一人のためにしているように自分に思われる程、おれはおれには勿体《もったい》ないほどのお前の愛に慣れ切ってしまっているのだろうか? それ程、お前はおれには何んにも求めずに、おれを愛していて呉れたのだろうか? ……」
そんな事を考え続けているうちに、私はふと何か思い立ったように立ち上りながら、小屋のそとへ出て行った。そうしていつものようにヴェランダに立つと、丁度この谷と背中合せになっているかと思われるようなあたりでもって、風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように聞えて来る。それから私はそのままヴェランダに、恰《あたか》もそんな遠くでしている風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れて来たのか、それとも私が知《し》らず識《し》らずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形を徐《おもむ》ろに浮き上がらせていた。それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々の謂《い》うところの幸福の谷[#「幸福の谷」に傍点]――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で何かが小さな音を軋《き》しらせているようだけれど、あれは恐らくそんな遠くからやっと届いた風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。
底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「※[#ローマ数字1、1−13−21]」「※[#ローマ数字2、1−13−22]」「※[#ローマ数字3、1−13−23]」の4章から成る。
「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
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