閧ニした額を私にも思い出させた。「こんな影にまで、こいつは心の裡《うち》で父を求めていたのだろうか? ああ、こいつはまだ全身で父を感じている、父を呼んでいる……」
が、一瞬間の後には、暗《やみ》がその低い山をすっかり満たしてしまった。そしてすべての影は消えてしまった。
「お前、家へ帰りたいのだろう?」私はついと心に浮んだ最初の言葉を思わずも口に出した。
そのあとですぐ私は不安そうに節子の目を求めた。彼女は殆どすげないような目つきで私を見つめ返していたが、急にその目を反らせながら、
「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と聞えるか聞えない位な、かすれた声で言った。
私は脣《くちびる》を噛んだまま、目立たないようにベッドの側を離れて、窓ぎわの方へ歩み寄った。
私の背後で彼女が少し顫声《ふるえごえ》で言った。「御免なさいね。……だけど、いま一寸の間だけだわ。……こんな気持、じきに直るわ……」
私は窓のところに両手を組んだまま、言葉もなく立っていた。山々の麓《ふもと》にはもう暗《やみ》が塊まっていた。しかし山頂にはまだ幽《かす》かに光が漂っていた。突然|咽《のど》をしめつけられるよ
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