スときの悦《よろこ》びが余計になるばかりだと思って、痩我慢《やせがまん》していたんだけれど、――あなたがもうお帰りになると私の思い込んでいた時間をずうっと過ぎてもお帰りにならないので、しまいにはとても不安になって来たの。そうしたら、いつもあなたと一緒にいるこの部屋までがなんだか見知らない部屋のような気がしてきて、こわくなって部屋の中から飛び出したくなった位だったわ。……でも、それから漸《や》っとあなたのいつか仰《おっ》しゃったお言葉を考え出したら、すこうし気が落着いて来たの。あなたはいつか私にこう仰しゃったでしょう、――私達のいまの生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……」
 彼女はだんだん嗄《しゃが》れたような声になりながらそれを言《い》い畢《お》えると、一種の微笑ともつかないようなもので口元を歪めながら、私をじっと見つめた。
 彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコンに出て行った。そしてその上から、嘗《かつ》て私達の幸福をそこに完全に
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