闖oしたままにして置いてある。それを仕上げるためにも、しばらく別々に暮らした方がいいのだと云うことを病人には云い含めて置いたのだ。
が、どうしてそれに描いたような私達のあんなに幸福そうだった状態に、今のようなこんな不安な気持のまま、私一人ではいって行くことが出来ようか?
私は毎日、二三時間|隔《お》きぐらいに、隣りの病室に行き、病人の枕もとにしばらく坐っている。しかし病人に喋舌《しゃべ》らせることは一番好くないので、殆んどものを言わずにいることが多い。看護婦のいない時にも、二人で黙って手を取り合って、お互になるたけ目も合わせないようにしている。
が、どうかして私達がふいと目を見合わせるようなことがあると、彼女はまるで私達の最初の日々に見せたような、一寸気まりの悪そうな微笑《ほほえ》み方を私にして見せる。が、すぐ目を反らせて、空《くう》を見ながら、そんな状態に置かれていることに少しも不平を見せずに、落着いて寝ている。彼女は一度私に仕事は捗《はかど》っているのかと訊いた。私は首を振った。そのとき彼女は私を気の毒がるような見方をして見た。が、それきりもう私にそんなことは訊かなくなった。そして一日は、他の日に似て、まるで何事もないかのように物静かに過ぎる。
そして彼女は私が代って彼女の父に手紙を出すことさえ拒んでいる。
夜、私は遅くまで何もしないで机に向ったまま、バルコンの上に落ちている明りの影が窓を離れるにつれてだんだん幽《かす》かになりながら、暗《やみ》に四方から包まれているのを、あたかも自分の心の裡さながらのような気がしながら、ぼんやりと見入っている。ひょっとしたら病人もまだ寝つかれずに、私のことを考えているかも知れないと思いながら……
[#地から1字上げ]十二月一日
この頃になって、どうしたのか、私の明りを慕ってくる蛾がまた殖え出したようだ。
夜、そんな蛾がどこからともなく飛んで来て、閉め切った窓硝子《まどガラス》にはげしくぶつかり、その打撃で自ら傷つきながら、なおも生を求めてやまないように、死に身になって硝子に孔《あな》をあけようと試みている。私がそれをうるさがって、明りを消してベッドにはいってしまっても、まだしばらく物狂わしい羽搏《はばた》きをしているが、次第にそれが衰え、ついに何処かにしがみついたきりになる。そんな翌朝、私はかならずその窓の下に、一枚の朽ち葉みたいになった蛾の死骸を見つける。
今夜もそんな蛾が一匹、とうとう部屋の中へ飛び込んで来て、私の向っている明りのまわりをさっきから物狂わしくくるくると廻っている。やがてばさりと音を立てて私の紙の上に落ちる。そしていつまでもそのまま動かずにいる。それからまた自分の生きていることを漸《や》っと思い出したように、急に飛び立つ。自分でももう何をしているのだか分らずにいるのだとしか見えない。やがてまた、私の紙の上にばさりと音を立てて落ちる。
私は異様な怖れからその蛾を逐《お》いのけようともしないで、かえってさも無関心そうに、自分の紙の上でそれが死ぬままにさせて置く。
[#地から1字上げ]十二月五日
夕方、私達は二人きりでいた。附添看護婦はいましがた食事に行った。冬の日は既に西方の山の背にはいりかけていた。そしてその傾いた日ざしが、だんだん底冷えのしだした部屋の中を急に明るくさせ出した。私は病人の枕もとで、ヒイタアに足を載せながら、手にした本の上に身を屈《かが》めていた。そのとき病人が不意に、
「あら、お父様」とかすかに叫んだ。
私は思わずぎくりとしながら彼女の方へ顔を上げた。私は彼女の目がいつになく赫《かがや》いているのを認めた。――しかし私はさりげなさそうに、今の小さな叫びが耳にはいらなかったらしい様子をしながら、
「いま何か言ったかい?」と訊《き》いて見た。
彼女はしばらく返事をしないでいた。が、その目は一層赫き出しそうに見えた。
「あの低い山の左の端に、すこうし日のあたった所があるでしょう?」彼女はやっと思い切ったようにベッドから手でその方をちょっと指して、それから何んだか言いにくそうな言葉を無理にそこから引出しでもするように、その指先きを今度は自分の口へあてがいながら、「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、いま時分になると、いつも出来るのよ。……ほら、丁度いま出来ているのが分らない?」
その低い山が彼女の言っている山であるらしいのは、その指先きを辿《たど》りながら私にもすぐ分ったが、唯そこいらへんには斜めな日の光がくっきりと浮き立たせている山襞《やまひだ》しか私には認められなかった。
「もう消えて行くわ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」
そのとき漸《や》っと私はその父の額らしい山襞を認めることが出来た。それは父のがっし
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