「じゃないか。ついでに君の身体も診ておいてやるんだったな」と私を気の毒がるように言った。
 駅から私が帰って、再び病室にはいってゆくと、父はそのまま寝ている病人の傍に居残って、サナトリウムへ出かける日取などの打ち合わせを彼女とし出していた。なんだか浮かない顔をしたまま、私もその相談に加わり出した。「だが……」父はやがて何か用事でも思いついたように、立ち上がりながら、「もうこの位に良くなっているのだから、夏中だけでも行っていたら、よかりそうなものだがね」といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。
 二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。それはいかにも春らしい夕暮であった。私はさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子《ガラス》扉の方に近づいて、その一方の扉を半ば開け放ちながら、それに靠《もたれ》れかかった。そうしてしばらくそのまま私は、自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、一面にうっすらと靄《もや》の立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう――」と思いながら、空虚な目をやっていた。
「何をしていらっしゃるの?」
 私の背後で、病人のすこし嗄《しゃが》れた声がした。それが不意に私をそんな一種の麻痺《まひ》したような状態から覚醒《かくせい》させた。私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、
「お前のことだの、山のことだの、それからそこで僕達の暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と途切れ途切れに言い出した。が、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんな事を今しがたまで考えていたような気がしてきた。そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――「向うへいったら、本当にいろいろな事が起るだろうなあ。……しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれを希《ねが》おうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」そんなことまで心の裡《うち》で考えながら、それには少しも自分では気がつかずに、私はかえって何んでもないように見える些細《ささい》な印象の方にすっかり気をとられていたのだ。……
 そんな庭面《にわも》はまだほの明るかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。
「明りをつけようか?」私は急に気をとりなおしながら言った。
「まだつけないでおいて頂戴……」そう答えた彼女の声は前よりも嗄れていた。
 しばらく私達は言葉もなくていた。
「私、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」
「じゃ、ここも締めて置こうね」
 私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。
「あなた……」彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」
 私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。
「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」
 彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ空《くう》を見つめているきりだった。
「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」
 私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面を見入り出した。
 やがて私は、私の背後に深い溜息《ためいき》のようなものを聞いた。
「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し顫《ふる》えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」
 私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 四月下旬の或る薄曇った朝、停車場まで父に見送られて、私達はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように、父の前はさも愉しそうに、山岳地方へ向う汽車の二等室に乗り込んだ。汽車は徐《しず》かにプラットフォームを離れ出した。その跡に、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前屈《まえかが》みにして、急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。――
 す
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