vわれるようなあたりでもって、風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように聞えて来る。それから私はそのままヴェランダに、恰《あたか》もそんな遠くでしている風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、それに耳を傾けながら立ち続けていた。私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、それがだんだん目に慣れて来たのか、それとも私が知《し》らず識《し》らずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形を徐《おもむ》ろに浮き上がらせていた。それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々の謂《い》うところの幸福の谷[#「幸福の谷」に傍点]――そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。まあ、ときおり私の小屋のすぐ裏の方で何かが小さな音を軋《き》しらせているようだけれど、あれは恐らくそんな遠くからやっと届いた風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五篇から成っている。
   「序曲」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表された「風立ちぬ」の発端部分を野田書房版(1938(昭和13)年4月10日刊)「風立ちぬ」において「序曲」と改題。
   「春」:「新女苑」1937(昭和12)年4月号に「婚約」と題し発表。
   「風立ちぬ」:「改造」1936(昭和11)年12月号に発表。構成は「発端」「※[#ローマ数字1、1−13−21]」「※[#ローマ数字2、1−13−22]」「※[#ローマ数字3、1−13−23]」の4章から成る。
   「冬」:「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号に発表。
   「死のかげの谷」:「新潮」1938(昭和13)年3月号に発表。
初収単行本:「風立ちぬ」野田書房、1938(昭和13)年4月10日
※底本の親本の筑摩全集版は、野田書房版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2003年12月29日作成
2004年3月27日修正
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