「ほどよい天気だ。朝のうちはヴェランダ一ぱいに日が射し込んでいて、風もなく、とても温かだ。けさなどはとうとうそのヴェランダに小さな卓や椅子を持ち出して、まだ一面に雪に埋もれた谷を前にしながら、朝食をはじめた位だ。本当にこうして一人っきりでいるのはなんだか勿体《もったい》ないようだ、と思いながら朝食に向っているうち、ひょいとすぐ目の前の枯れた灌木《かんぼく》の根もとへ目をやると、いつのまにか雉子《きじ》が来ている。それも二羽、雪の中に餌をあさりながら、ごそごそと歩きまわっている……
「おい、来て御覧、雉子が来ているぞ」
私は恰《あたか》もお前が小屋の中に居でもするかのように想像して、声を低めてそう一人ごちながら、じっと息をつめてその雉子を見守っていた。お前がうっかり足音でも立てはしまいかと、それまで気づかいながら……
その途端、どこかの小屋で、屋根の雪がどおっと谷じゅうに響きわたるような音を立てながら雪崩《なだ》れ落ちた。私は思わずどきりとしながら、まるで自分の足もとからのように二羽の雉子が飛び立ってゆくのを呆気にとられて見ていた。そのとき殆ど同時に、私は自分のすぐ傍に立ったまま、お前がそういう時の癖で、何も言わずに、ただ大きく目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りながら私をじっと見つめているのを、苦しいほどまざまざと感じた。
午後、私ははじめて谷の小屋を下りて、雪の中に埋まった村を一周りした。夏から秋にかけてしかこの村を知っていない私には、いま一様に雪をかぶっている森だの、道だの、釘づけになった小屋だのが、どれもこれも見覚えがありそうでいて、どうしてもその以前の姿を思い出されなかった。昔、私が好んで歩きまわった水車の道[#「水車の道」に傍点]に沿って、いつか私の知らない間に、小さなカトリック教会さえ出来ていた。しかもその美しい素木造《しらきづく》りの教会は、その雪をかぶった尖《とが》った屋根の下から、すでにもう黒ずみかけた壁板すらも見せていた。それが一層そのあたり一帯を私に何か見知らないように思わせ出した。それから私はよくお前と連れ立って歩いたことのある森の中へも、まだかなり深い雪を分けながらはいって行って見た。やがて私は、どうやら見覚えのあるような気のする一本の樅《もみ》の木を認め出した。が、漸《や》っとそれに近づいて見たら、その樅の中からギャッと鋭い鳥の啼《な》き声《ごえ》がした。私がその前に立ち止まると、一羽の、ついぞ見かけたこともないような、青味を帯びた鳥がちょっと愕《おどろ》いたように羽摶《はばた》いて飛び立ったが、すぐ他の枝に移ったままかえって私に挑みでもするように、再びギャッ、ギャッと啼き立てた。私はその樅の木からさえ、心ならずも立ち去った。
[#地から1字上げ]十二月七日
集会堂の傍らの、冬枯れた林の中で、私は突然二声ばかり郭公《かっこう》の啼きつづけたのを聞いたような気がした。その啼き声はひどく遠くでしたようにも、又ひどく近くでしたようにも思われて、それが私をそこいらの枯藪《かれやぶ》の中だの、枯木の上だの、空ざまを見まわせさせたが、それっきりその啼き声は聞えなかった。
それは矢張りどうも自分の聞き違えだったように私にも思われて来た。が、それよりも先きに、そのあたりの枯藪だの、枯木だの、空だのは、すっかり夏の懐しい姿に立ち返って、私の裡《うち》に鮮かに蘇えり出した。……
けれども、そんな三年前の夏の、この村で私の持っていたすべての物が既に失われて、いまの自分に何一つ残ってはいない事を、私が本当に知ったのもそれと一しょだった。
[#地から1字上げ]十二月十日
この数日、どういうものか、お前がちっとも生き生きと私に蘇《よみがえ》って来ない。そうしてときどきこうして孤独でいるのが私には殆どたまらないように思われる。朝なんぞ、煖炉《だんろ》に一度組み立てた薪がなかなか燃えつかず、しまいに私は焦《じ》れったくなって、それを荒あらしく引っ掻きまわそうとする。そんなときだけ、ふいと自分の傍らに気づかわしそうにしているお前を感じる。――私はそれから漸《や》っと気を取りなおして、その薪をあらたに組み変える。
又午後など、すこし村でも歩いて来ようと思って、谷を下りてゆくと、この頃は雪解けがしている故、道がとても悪く、すぐ靴が泥で重くなり、歩きにくくてしようがないので、大抵途中から引っ返して来てしまう。そうしてまだ雪の凍《し》みついている、谷までさしかかると、思わずほっとしながら、しかしこん度はこれから自分の小屋までずっと息の切れるような上り道になる。そこで私はともすれば滅入りそうな自分の心を引き立てようとして、「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも禍害《わざはひ》をおそれじ、なんぢ我ととも
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