刀sかこく》なくらいの自然の中に、それをそっくりそのまま少しも害《そこな》わずに生かして見たかったのだ。そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、淋しい山岳地方のそれでなければいけなかったのだ……
――夜の明けかかる頃、私はまだその少し病身な娘の眠っている間にそっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。あたりの山々は、曙《あけぼの》の光を浴びながら、薔薇色《ばらいろ》に赫《かがや》いている。私は隣りの農家からしぼり立ての山羊の乳を貰って、すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。それから自分で煖炉《だんろ》に焚木《たきぎ》をくべる。やがてそれがぱちぱちと活溌な音を立てて燃え出し、その音で漸っとその娘が目を覚ます時分には、もう私はかじかんだ手をして、しかし、さも愉《たの》しそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活をそっくりそのまま書き取っている……
今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、そんな何処にだってありそうもない版画じみた冬景色を目のあたりに浮べながら、その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置を換えたり、それに就いて私自身と相談し合ったりしていた。それから遂にそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えて行きながら、ただ私の目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、ほんの少しばかり雪の積った山々と、裸になった木立と、冷たい空気とだけが残っていた。……
一人で先きに食事をすませてしまってから、窓ぎわに椅子をずらしてそんな思い出に耽《ふけ》っていた私は、そのとき急に、いまやっと食事を了《お》え、そのままベッドの上に起きながら、なんとなく疲れを帯びたようなぼんやりした目つきで山の方を見つめている節子の方をふり向いて、その髪の毛の少しほつれている窶《やつ》れたような顔をいつになく痛々しげに見つめ出した。
「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持で一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。
「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お
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