ネがら訊いた。
「此処であなたをお待ちしていたの」彼女は顔を少し赧《あか》くして笑いながら答えた。
「そんな乱暴な事をしても好いのかなあ」私は彼女の顔を横から見た。
「一遍くらいなら構わないわ。……それにきょうはとても気分が好いのですもの」つとめて快活な声を出してそう言いながら、彼女はなおもじっと私の帰って来た山麓《さんろく》の方を見ていた。「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」
私は何も言わずに、彼女の側に並んで、同じ方角を見つめた。
彼女が再び快活そうに言った。「此処まで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」
「うん」と私は気のなさそうな返事をしたきりだったが、そのままそうやって彼女と肩を並べてその山を見つめているうちに、ふいと何んだか不思議に混んがらかったような気がして来た。
「こうやってお前とあの山を見ているのはきょうが始めてだったね。だが、おれにはどうもこれまでに何遍もこうやってあれを見ていた事があるような気がするんだよ」
「そんな筈はないじゃあないの?」
「いや、そうだ……おれはいま漸《や》っと気がついた……おれ達はね、ずっと前にこの山を丁度向う側から、こうやって一しょに見ていたことがあるのだ。いや、お前とそれを見ていた夏の時分はいつも雲に妨げられて殆ど何も見えやしなかったのさ。……しかし秋になってから、一人でおれが其処へ行って見たら、ずっと向うの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたのだ。あの遠くに見えた、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、確かにこれらしい。丁度そんな方角になりそうだ。……お前、あの薄《すすき》がたんと生い茂っていた原を覚えているだろう?」
「ええ」
「だが実に妙だなあ。いま、あの山の麓《ふもと》にこうしてこれまで何も気がつかずにお前と暮らしていたなんて……」丁度二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線の上にくっきりと見出したこの山々を遠くから眺めながら、殆ど悲しいくらいの幸福な感じをもって、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、いかにも懐かしく、私の目に鮮かに浮んで来た。
私達は沈黙に落ちた。その上空を渡り鳥の群れらしいのが音もなくすうっと横切って行く、その並み重った山々を眺めながら、私達はそんな最初の日々のような慕わしい気持で、肩を押しつけ合った
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