れらの少女らは一人として私を苦しめないものはなく、それに私は彼女らのために苦しむことを余りにも愛していたので、そのために私はとうとう取りかえしのつかない打撃を受けた。
 私ははげしい喀血《かっけつ》後、嘗《かつ》て私の父と旅行したことのある大きな湖畔に近い、或る高原のサナトリウムに入れられた。医者は私を肺結核だと診断した。が、そんなことはどうでもいい。ただ薔薇《ばら》がほろりとその花弁を落すように、私もまた、私の薔薇いろの頬《ほお》を永久に失ったまでのことだ。
 私の入れられたそのサナトリウムの「白樺《しらかば》」という病棟には、私の他には一人の十五六の少年しか収容されていなかった。
 その少年は脊椎カリエス患者だったが、もうすっかり恢復期《かいふくき》にあって、毎日数時間ずつヴェランダに出ては、せっせと日光浴をやっていた。私が私のベッドに寝たきりで起きられないことを知ると、その少年はときどき私の病室に見舞いにくるようになった。或る時、私はその少年の日に黒く焼けた、そして唇《くちびる》だけがほのかに紅《あか》い色をしている細面《ほそおもて》の顔の下から、死んだ三枝の顔が透かしのように現われているのに気がついた。その時から、私はなるべくその少年の顔を見ないようにした。
 或る朝、私はふとベッドから起き上って、こわごわ一人で、窓際《まどぎわ》まで歩いて行ってみたい気になった。それほどそれは気持のいい朝だった。私はそのとき自分の病室の窓から、向うのヴェランダに、その少年が猿股《さるまた》もはかずに素っ裸になって日光浴をしているのを見つけた。彼は少し前屈《まえこご》みになりながら、自分の体の或る部分をじっと見入っていた。彼は誰にも見られていないと信じているらしかった。私の心臓ははげしく打った。そしてそれをもっとよく見ようとして、近眼の私が目を細くして見ると、彼の真黒な脊なかにも、三枝のと同じような特有な突起のあるらしいのが、私の眼に入った。
 私は不意に目まいを感じながら、やっとのことでベッドまで帰り、そしてその上へ打つ伏せになった。

 少年は数日後、彼が私に与えた大きな打撃については少しも気がつかずに、退院した。



底本:「燃ゆる頬・聖家族」新潮文庫、新潮社
   1947(昭和22)年11月30日発行
   1970(昭和45)年3月30日26刷改版
   1987(昭和62)年10月20日51刷
初出:「文藝春秋」
   1932(昭和7)年1月号
初収単行本:「麥藁帽子」四季社
   1933(昭和8)年12月5日
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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