こおりぐら》だ。――あの向うの家だ」
しかしその氷倉だという異様な恰好《かっこう》をした藁小屋に遮《さえ》ぎられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを見ると、恐《おそ》らく小さな掘立《ほったて》小屋かなんかに違《ちが》いなかった。
「気ちがいっておとっつぁんがかい?」
「……」兄も弟も同時に頭を振った。
「じゃ、おっかさんの方だね?」
「うん……」そう答えてから、兄は弟の方を見い見い誰《だれ》に言うともなく言った。「ときどき川んなかで呶鳴《どな》っているなあ」
「おれも一度向うの川で見た」弟の返事である。
「向うって何処だ?」
「向うの方だ」弟は何んだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、漠然《ばくぜん》と或《あ》る方向を私に指して見せた。
「そうか」私はわかったような振りをした。「……おとっつあんは何をしているんだ?」
「木樵《きこ》りだなあ」とこんどはまた兄が弟の方を見い見い言った。
「変なとっつあんだ」弟は顔をしかめながらそれに答えた。
氷倉の蔭から、再びちらりと小娘らしい顔が出たようだったけれど、私たちの方からは丁度逆光線だったので、よくもそれを見分けないうちに、その顔はすぐ引っ込んでしまった。それっきりその小娘は顔を出さなかった。ただ私たちはそれから間もなく異様な叫《さけ》びを耳にした。それはその小娘が私たちを罵ったのか、それとも私たちには見えぬ小屋の中からその小娘に向ってそれが叫ばれたのか、それとも又《また》、その裏の林のなかで山鳩《やまばと》でも啼《な》いたのだろうか? ともかくも、その得体《えたい》の知れぬアクセントだけが妙《みょう》に私の耳にこびりついた。――が、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空地を横切って行った。私たちはそれから再び林の中へ這入《はい》った。その中へ這入ると急に薄暗《うすぐら》くなったようだけれど、私たちの眼底にはいまの空地の明るさがこびりついているせいか、暫《しば》らく私たちの周りには一種異様な薄明りが漂《ただよ》っているように見えた。そんな林の中をずんずん先きになって駈《か》け下りて行く子供たちの跡《あと》について行きながら、彼等がいまだに何となく昂奮《こうふん》しているらしいのを、私は漠然と感じていた。そうして、こんな風に彼等と一緒に峠を下りて行く私は一体彼等にはどんな人間に
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