たのだから、その前まで往くだけでも往って見ようと、六人ぐらいは乗れそうな、旧式のモオタア船にちょこんと二人だけ乗った。
 湖水は静かだった。絵はがきによくあるヨットは一隻も出ていなかった。私達を載せたモオタア船だけが湖上にあって、水の面にガソリンの臭を漂わせながら、いやにエンジンの音を立て続けている。――漸《ようや》く外人部落が目《ま》なかいに見えて来、その一番はずれには、なるほど赤い屋根の建物があって、その上には赤い旗がばたばたやっているのが認められ出した。
 モオタア船から上って、坂を登り切ると、すぐそれが分かった。レエクサイド・ホテルと云うからには、もう少し洒落《しゃれ》た家かと思っていたら、なんの事はない、――丸木作りの、いとも粗末なバンガロオだった。私達は再び顔を見交した。ままよ、もうしようがないから、一晩だけでも我慢して泊って往こうと腹を据えて、私は妻の持っていたラケット入れを殆ど引ったくるようにして、玄関に立った。
 玄関の脇に二つ三つ木の椅子のある小さな土間があって、そこが酒場になっている。舶来物らしいウィスキイや葡萄酒《ぶどうしゅ》の壜《びん》が並んで、壁には「Summer in Germany」というポスタアが掛かっているのが見える。ちょっと一種の感じがある。
 二度目に呼鈴《ベル》を押したら、漸《や》っと白い上張りを引っかけた若い男が出て来たので、部屋をかけあうと、まだ二三日滞在している筈の前からの客があるのでそれまでならお泊めします、と云う事だった。ともかくも部屋を見せて貰うことにして、靴を――そう、靴は脱がなければならなかった。
 客室は二階に五つか六つあるっきり、――それも西側の湖水に向いた方は全部日本間で、洋間は裏山と向き合った東側に小さいのが二つあるだけだった。湖水に向った方は折からの西日が一ぱい差し込んでいて、それではやり切れないから、眺めの悪い洋間の方の一つを選んだ。窓の下には薪が積んであったり、玉蜀黍《とうもろこし》が植えられてあったりしていて、その少し向うに二三本の赭松《あかまつ》が見え、それから何処へ往くのだか一本の道が傾きながら裏山へ消えているきりだった。しかし、思ったよりは落着けそうな部屋だった。
 二階に張出しがあってちょっといいと妻が見て来ていうので、私もそのままスリッパを引摺《ひきず》って出て往って見た。すぐ真下に木々の枝を丁度いい額縁にして湖水の一部が見えそれを四方から囲んでいる山々を私ははじめて見た。地図と見くらべながら、右手のが斑尾《まだらお》山、それからずっと左手のが妙高山、黒姫山、というのだけが分かった。それからいま此処からは見えないが、戸隠山、飯綱山などがまだ控えている筈だった。


    *

 そう疲れてもいないので、夕飯までに近所の外人部落でも一まわりして見る事にする。
 急な丘の腹にもって来て、殆ど隙間もない位、それらの別荘が建て混んでいるので、通り路が何処からどうついているのかも分からず、又、その道から一々の別荘へなんの仕切りもなしに段々路がついているので、そのややっこしいったら無い。うっかりするとすぐ外人の別荘の中へ迷い込んでしまうが、さいわい今はもう殆ど全部閉まっているので、平気でそのヴェランダの下や勝手の横などを通り抜けて往った。まだ二軒か三軒ぐらい、そんな別荘に外人の家族が居残っているらしく、空家かと思った中から人の暮らしの静かな物音がしたりする。
 こうやって人けの絶えた外人部落をなんという事なしにぶらついていると、夏の盛り時は見ていずとも、何か知ら夏に於ける彼等の生活ぶりがそこいらへんからいきいきと蘇《よみがえ》ってくる。――人が住んでいようといまいと、いつもこんな具合に草が茫々《ぼうぼう》と生えて、ヴェランダなど板が割れて、いまにも踏み抜きそうな位に、廃園らしい感じだが、そんな中から人々の笑い声がし、赤ん坊がハンモックに寝かされ、犬が走り、マアガレットが咲きみだれ、洗濯物が青いのや赤いのや白いのや綺麗《きれい》にぶらさがっている。……夕方になると、上の方の別荘からレコオドが聞え、湖水の面にはヨットが右往左往している。そして、このウツギの花の咲いた井戸端なんぞには、きっと少女が水を汲みに来て快活そうにお喋《しゃべ》りをする。……そんな愉《たの》しそうな空想があとからあとから涌《わ》いて来る。それをまた子供のようにはしゃいで一々妻に云い訊かせながら歩いている私は、何遍となく間違えて人の家へはいって往った。
 漸っと急な坂を湖水の岸まで下りて、こんどは岸の砂地を歩いた。まだ二三隻、岸に繋《つな》がれていたボオトの尻を浪がぺちゃぺちゃと叩いていた。そこにも人けは全く絶えていて、白いワイヤ種の犬が一匹、その浪打ち際を、一人で駈けずりまわっているだけ
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