うっすらした香《かお》りをかいだ。その香りは、私の鼻先きの髪の毛からというよりも、私の記憶の中から、うっすら浮んでくるように見えた。それは匂《にお》いのしないお前の匂いだ。太陽のにおいだ。麦藁《むぎわら》帽子のにおいだ。……私は眠ったふりをして、その髪の毛のなかに私の頬を埋めていた。お前はじっと動かずにいた。お前も眠ったふりをしていたのか?
早朝、私の父の到着の知らせが私たちを目覚《めざ》ませた。私の母は私の父からはぐれていた。そうしていまだにその行方が分らなかった。私の家の近くの土手へ避難した者は、一人残らず川へ飛び込んだから、ことによるとその川に溺《おぼ》れているのかも知れない。……
そういう父の悲しい物語を聞いているうち、私は漸《ようや》くはっきり目をさましながら、いつのまにか、こっそり涙を流している自分に気がついた。しかしそれは私の母の死を悲しんでいるのではなかった。その悲しみだったなら、それは私がそのためにすぐこうして泣けるには、あまりに大き過ぎる! 私はただ、目をさまして、ふと昨夜の、自分がもう愛していないと思っていたお前、お前の方でももう私を愛してはいまいと思っていたお前、そのお前との思いがけない、不思議な愛撫《あいぶ》を思い出して、そのためにのみ私は泣いていたのだ……
その日の正午頃、お前たちは二台の荷馬車を借りて、みんなでその上に家畜のように乗り合って、がたがた揺られながら、何処《どこ》だか私の知らない田舎《いなか》へ向って、出発した。
私は村はずれまで、お前たちを見送りに行った。荷馬車はひどい埃《ほこ》りを上げた。それが私の目にはいりそうになった。私は目をつぶりながら、
「ああ、お前が私の方をふり向いているかどうか、誰か教えてくれないかなあ……」
と、口の中でつぶやいていた。しかし自分自身でそれを確かめることはなんだか恐ろしそうに、もうとっくにその埃りが消えてしまってからも、いつまでも、私は、そのまま目をつぶっていた。
底本:「燃ゆる頬・聖家族」新潮文庫、新潮社
1947(昭和22)年11月30日発行
1970(昭和45)年3月30日26刷改版
1987(昭和62)年10月20日51刷
初出:「日本國民」日本國民社
1932(昭和7)年9月号
初収単行本:「麥藁帽子」四季社
1933(昭和8)年12月5日
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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