鳥料理
A PARODY
堀辰雄

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一寸《ちょっと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)朝|毎《ごと》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#ここから2字下げ]
−−

     前口上

[#ここから2字下げ]
昔タルティーニと云う作曲家が
Trillo del Diavolo[#「Trillo del Diavolo」は斜体]と云うソナータを
夢の中で作曲したと云う話は
大層有名な話である故《ゆえ》、
読者諸君も大方御存知だろうが、
一寸《ちょっと》私の手許《てもと》にある音楽辞典から引用してみると、
何でもタルティーニは或《ある》晩の事、
自分の霊魂を悪魔に売った夢を見たそうな。
その時悪魔がヴァイオリンを手にとって
いとも巧に弾奏し出したのは
到底彼の企て及ばざりし奇《く》しき一曲。
「余は前後を忘れて驚嘆したり。
余の呼吸は奪われたり。
しかして余は夢より目覚めぬ。
余は余のヴァイオリンを取り出《い》でて
余が聞きたる音調をそれに止《とど》め置かんと試みたり。
されどそは遂《つい》に効を奏さざりき。
その時余が作りたる楽曲、即《すなわ》ち Trillo del Diavolo[#「Trillo del Diavolo」は斜体]は
余が夢中聞きたるものと比較せば、
その及ばざること甚《はなは》だ遠し。」
これは晩年大作曲家自らが
彼の友人の天文学者ラランドに洩《も》らした感慨だそうな。
さて、左様なタルティーニが感慨はさることながら、
微々たる群小詩人の一人に過ぎぬ私も
夢の中で二三の詩の構想を得たばかりに、
何んとかしてそれに形体を与えようと随分苦しみ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いたものだ。
しかし夢中ではあんなに蠱惑《こわく》的に見えた物語の筋も、
目覚《めざ》めてみれば既にその破片しか残ってはおらず、
何度《なんど》私はそれ等《ら》の破片を、朝|毎《ごと》に
海岸に打ち揚げられる漂流物のように
唯《ただ》手を拱《こまね》いて悲しげに眺《なが》めたことか。
「ああ、夢の中の詩人の何んと幸福なことよ。
ああ、それに比べて現実を前にした詩人の何んと惨《みじ》めなことよ。」
そんな溜息《ためいき》を洩らしながら昨夜《ゆうべ》も私は寝床に這入《はい》った。
実は雑誌記者が夕方私の所にやって来て
どうでも明日までに原稿を書いて貰《もら》わねば困ると云うのである。
私は徹夜をしてもきっと間に合わせると約束をして其奴《そいつ》を撃退してやったが、
それからすぐ睡《ねむ》くなって、「これぁ不可《いか》ん。こうして
居るよりか、ひとつ夢でも見て詩の良導体になってやろう。」
そう考えながら寝床に這入り、私はそのまま他愛もなく眠ってしまった。
それから何やらごたごたと沢山夢は見たけれど、
今朝《けさ》目を覚ましたら皆忘れていた。
勝手にしやがれ、と私は糞度胸《くそどきょう》を据えて
黒珈琲《ブラック・コオフィイ》を飲みかけようとした途端《とたん》に、こんな事を思いついた。
「己《おれ》の書こうと思っている夢のコントの中では魔法使いの婆さんが
鳥の骨ばかりになった奴にソオスをぶっかけて
そいつを己に食わせやあがったが、
あれはあれでちょっと乙《おつ》な味がしたぞ。
己もひとつその流儀で行こうかしらん。
己のやくざな夢の残骸《ざんがい》にウオタアマン・インクをぶっかけてやったら、
何とかそれなりに恰好《かっこう》がつくかも知れぬ。
よし、それで行こう……」
[#ここで字下げ終わり]

     1 奇妙な店

 私の見る夢には大概色彩がある。そういう夢を見るのは神経衰弱のせいだと教えてくれる人が居る。そんなことはどうだっていい。唯《ただ》、私の見る色彩のある夢にも二種あることを私は云っておきたい。その一つは、鮮明な、すき透《とお》るような色彩からのみ成っている。その色はちょっとドロップスのそれに似ている。(私は一ぺん糖分が夢にはよく利《き》くというのでドロップスをどっさり頬張《ほおば》りながら寝たことがあるが、その朝、私はそのドロップスにそっくりな色の着いた夢を見たっけ……)そう、そう、それから私がマリイ・ロオランサンの絵に夢中になっていたのもあの絵の色が私の夢のそれに似ていたからであった。が、もう一方の夢は、そんな鮮明な色は無い。何とも云えず物凄《ものすご》いような色で一様に塗り潰《つぶ》されているばかりである。しかし、そんな色は殆《ほとん》ど現実の中には見出《みいだ》されないようだから、無色と云ってもいいかも知れない。しかし所謂《いわゆる》無色なのではない。私はたった一ぺんきりそれを見て「ああこの色だ」と思ったものがある。それは仏蘭西《フランス》の L'ESPRIT NOUVEAU という美術雑誌に数年前載っていたピカソの Nature Morte[#「Nature Morte」は斜体]の絵だ。まあ、あれがちょっと私のそんな夢の色に似ていた。
 私が真先に書こうと思っている「奇妙な店」の方は、その第一の種類に属している。鮮《あざ》やかな色の着いている方だ。そうしてその夢の冒頭は、私のそういう種類の夢の中にそれまでにも屡々《しばしば》現われて来たことのある、一つの場面から始まる。その私のよく夢に見る場面というのは、ただ一本の緑色をした樹木から成り立っている。その緑色の葉が何とも云えずに綺麗《きれい》なのだ。そしてそれをじっと見つめていられない程それが眩《まぶ》しいのだ。しかしそんなに眩しいのはその緑色の葉のせいばかりではないかも知れない。その緑の茂みの上に一面に硫黄《いおう》のような色をした斑点《はんてん》のようなものが無数にちらついているのだ。それはなんだかそんな黄色をした無数の小さな蝶《ちょう》が簇《むら》がりながら飛んでいるようにも見える。それはまたその木にそんな色をした無数の小さな花が咲いていてそれが微風に揺られながら太陽に反射しているのかとも思える。なんだか私にはよく分らないけれども私はそれにうっとりと見入っている。――この何んの木だか分らないが、いつも同じ木は、私の夢の中に、そう――少くとももう七遍ぐらいは出て来ている。だからそう珍らしくはない筈《はず》だが、それでも不思議に私はその度毎《たびごと》に、いつも最初にそれを見た時のような驚きをもって、わくわくしながらそれに見入るのだ。
 突然、夢の場面が一変する。――が、それは場面が連続的に移動するのではない。それは不連続的に移動する。つまり、二つの場面の間にはぽかんと大きな間隙《かんげき》が出来てしまっている。目が覚めてから、夢がどうも辻褄《つじつま》が合わなく見えるのは、その間隙の所為《せい》が多い。私はその間隙を何かで充填《じゅうてん》しようと努力してみることがあるが、どうもそれがうまく行かない。私は此処《ここ》でもそれをその間隙のままにしておくよりしかたがない。(唯、こういう具合にだけは二つの場面は連続している。私はその何んの木かを驚きながら見入っている。しかし見入っているうちに、何時《いつ》の間にか私には今しがたまで確かにそんな木を見ていたのだが、と云う感じだけがして来るようになる。その時はもう既にその木は夢から消え去っている。そしてその残像だけを自分の頭に浮べながら、私はいつか次の場面に立会っている。まあ、そう云う具合にである。)

[#ここから2字下げ]
向うの町角の方が急に騒がしくなる
なんだか人が大勢集っている
私は見上げていた木の傍《そば》を離れてそっちの方へ何時の間にか歩き出している
何か珍らしい行列が向うの町から徐《しず》かにやって来るらしい
あんまり皆が夢中になって見ているので私も人々のうしろから背伸びをして見ている
とうとうその行列が近づいて来たようだ
象だ! 象だ! 象だ! 大きな象が
たった一人で、無頓着《むとんじゃく》そうに、のそりのそりと鼻をふりながら歩いて来る
象の皮膚はなんだか横文字の新聞を丸めたのをもう一度引き伸ばして
貼《は》りつけたように、皺《しわ》だらけで、くしゃくしゃになっている
その背中には真紅な毛氈《もうせん》が掛っている、そうして尚《なお》よく見ると
その毛氈の上には小さな香炉《こうろ》のようなものが載さっていて
それから一すじ細ぼそと白い烟《けむ》りが立ち昇っている
何かの広告であるらしいがそれが誰にも分らないらしい
隣りの人に聞いてもそれは分らないのが当り前だと云うような顔をしている
しかしその香炉の烟りは好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》がする 何ともかとも云いようのないほど好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]がする
象が何処《どこ》かへ行ってしまっても何時までもその※[#「均−土」、第3水準1−14−75]だけが残っている
(そうしてその象の残像と、その※[#「均−土」、第3水準1−14−75]とだけが私のなかに残って
いつか次の場面になってしまっている)

私の向うに温室のようなものが見え出す
それはすっかりガラス張りだ
私がそれを見て温室かしらと思ったのはそのガラス越しに
見知らない熱帯植物のような鉢植《はちうえ》がいくつも室内に置かれてあるのを見たからだ
しかしそれは普通の温室ではないらしい
中にはマホガニイ製の小さな卓《テエブル》が五つ六つ一種風致のある乱雑さで配置されている
そしてその上に一つずつその熱帯植物のようなものが飾られてあるに過ぎない
何処かにこんな奇妙な珈琲店《コオフィイてん》があったような気もされてくる
しかしその中には誰もいない 全く空虚《からっぽ》だ
ちょっと這入《はい》って見てそれが何だか確かめてみたい
そんな処《ところ》に勝手に這入り込んでいて叱《しか》られたら
ままよ、それまでだ……と思って私は臆病《おくびょう》な探偵のようにこわごわその中に忍び込む
私がガラス戸を押し開けるや否や、ぷんと好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]がする
それがさっき象のさせていた好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]とそっくりだ
さっきの※[#「均−土」、第3水準1−14−75]が私の鼻に蘇《よみがえ》って来たのではないかと思えた位
何ともかとも云いようのないほど好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]だ
矢張り誰もいない 私はこわごわ一つの卓《テエブル》の傍に腰を下ろしながら
その※[#「均−土」、第3水準1−14−75]を捜す……私はそのとき始めて
熱帯植物の鉢植のかげに一つの灰皿があって
それに烟草《たばこ》の吸殻のようなものが一つ置き忘られてあるのに気がつく
それから一すじの白い烟りが細ぼそと立ち昇っているのである
どうやらそれから私をすっかり魅している※[#「均−土」、第3水準1−14−75]が発せられているらしい
私はまた象のことを思い浮べる
そして漸っといまあの象が阿片《あへん》の広告であったことに気がつき出す
「ははあ、それだから誰にも分らなかったんだな
なあんだ此処《ここ》は阿片窟《あへんくつ》なのか……」
私はあらためて店の中を見まわしてみる
やっぱり誰もいない 空虚だ
いかにも静かだ ひっそりしている
それでいてつい今しがたまで客が何組かあったのだが
それが皆立ち去ったすぐ跡だと云うような気がされる
店の空気がひどく疲れを帯びているのが感ぜられる
誰もいないのに人気が漂っている それが鬼気のようにぞっと感ぜられる
何かしら惨劇のあった跡の静けさはこんなものじゃないかしらと思えてくる
もしかしたら今まで此処で客同志の間に殺人事件かなんかあって
その跡始未のために皆ここの店のものまで残らず出かけて行っていて
それでこんな空虚《からっぽ》なのかも知れん……
そう思って店のなかを見廻すと、一向それらしい形跡は
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング