た。
 続いて、もう一台の橇とすれちがった。こんどはどうやらうまくすれちがったようだったが、それも空らしかった。
 そうやって二台の橇とすれちがって、しばらくしてから僕はふいと時計を出してみると、橇に乗ってから一時間ばかりも経っているので、ああ、もうこんなに乗っていたのかと意外におもいながら、一体、いまどのへんなのだろうと、又、例の穴に顔を近づけてみると、ちょうど自分の橇の通っている岨《そば》の、ずっと下のほうの谷のようなところを二台の橇がずんずん下りてゆくのが、それだけが唯一の動きつつあるものとして、いかにもなつかしげに見やられた。それにしても、あれがいましがた自分とすれちがった橇かとおもわれる位、そんなにもう下のほうまで往っているのには驚いた。そうしてそれと共に、僕ははじめて自分のいつのまにかはいり出している山の深さに気がついてきた。それほど自分のそれまでの視野のうちには、いつまで経っても、同じような白い山、同じような白い谷、同じような恰好《かっこう》をした白い木立しかはいって来ないでいたのだった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 僕はそれから橇のなかに再び坐りなおして、がたんがたん揺られるがままになりながら、いよいよ自分も久恋の雪の山に来ているのだなとおもった。ずいぶん昔から、いまのように、こうしてただ雪の山のなかにいること、――それだけをどんなに自分は欲して来たことだろう。べつに雪の真只中でどうしようというのでもない。――スポルティフになれない弱虫の僕は、ただこういう雪の中にじっとして、真白な山だの(――そう、山もそんなに大それたものでなくとも、丁度いま自分の前にあるような小品風なものでいい……)、真白な谷だの(――谷もあの谷で結構……)、雪をかぶったいくつかの木立のむれ(――あそこに立っている樺《かば》のような木などはなかなか好いではないか……)などをぼんやり眺めてさえいればよかった。
 ただすこし慾をいえば、ほんの真似だけでもいい、――真白な空虚にちかい、このような雪のなかをこうして進んでいるうちに、ふいと馭者も馬も道に迷って、しばらく何処をどう通っているのだか分からなくなり、気がついてみると、同じところを一まわりしていたらしく、さっきと同じ場所に出ている――そんな純粋な時間がふいと持てたらどんなに好かろう、とそんな他愛のないことだけが願わしいような、淡々とした気もちでいた。……
 僕は目をつぶって、幌の穴から見ようとすれば見えたでもあろう、そのような雪の世界をただ想像裡《そうぞうり》に描きつづけながら、こういう自分の雪に対するそれほど烈しくもない、といって一時の気まぐれでもない、長いあいだの思慕のようなものが、いつ、どうして自分のなかに生じて来たのだろうかと考え出していると、突然、十年ほどまえ八つが岳の麓《ふもと》にあるサナトリウムで生を養っていた自分のすがたが鮮かによみ返ってきだした。冬になると、山麓《さんろく》のサナトリウムのあたりは毎日ただ生気なく曇っているだけなのに、山々はいつも雪雲で被われており、そんな雲のないときには、それらの山々は見事なほど真白なすがたをしていた。僕はそんな冬の日をどうしようもなしに暮らしながら、ときどき雪の山のほうへ切ない目ざしを向けるようになり出していた。そんな雪雲にすっかり被われている山のもなかを、なにか悲壮な人間の内部でも見たいように、おそるおそる見たがりながら。……
 僕は、いま、その頃の自分にはとても実現せられそうもないように見えていた、こんな雪の中にはいり込んで来ているのだと思いながら、さて、べつにどうという感慨もなかった。悲壮のようなものはいささかも感ぜられなかった。寒さだって大したことはない。むしろ、雪のなかは温かで、なんのもの音もなく、非常に平和だ。そう、愉《たの》しいといったほうがいい位だ。橇《そり》の中にいて、小さな幌《ほろ》の穴から、空を見あげていると、無数の細かい雪がしっきりなしに、いかにも愉しげな急速度でもって落ちてくる。そうやってなんの音も立てずに空から落ちてくる小さな雪をじいっと見入っていると、その愉しげな雪の速さはいよいよ調子づいてくるようで、しまいにはどこか空の奥のほうでもって、何かごおっという微妙な音といっしょになってそれが絶えず涌《わ》いているような幻覚さえおこってくるようだ。
 大きな壺に耳をあてていると、その壺の底のほうからごおっといって無数の音響が絶えまなしに涌きあがっている。――ちょうどああいった工合に何か愉しくて愉しくてならないように、無数の小さな雪が空の奥のほうで微かにごおっという音を立てながら絶えず涌いているような気がせられるのである。僕はいつまでも一ところからじっと、絶えず落ちてくる雪を見ている中に、そんな幻覚的な気もちにさえなり出していたが、急にまた坂にさしかかったと見えて橇ががたんがたん揺れだしたので、思わず自分自身に立ち返えされてしまっていた。

[#ここから2字下げ]
……雪のごとく愉しかれ。
大いなる壺のやすらかに閉ざされし内部に在りて、
すべての歌声の、よろこばしきアルペジオとなりて、
絶えず涌きあがるがごとくにあれ。
[#ここで字下げ終わり]

 そうしてそういうノワイユ夫人の詩の一節だけが、いつまでも自分の口の裡《うち》に、なにか永遠の一片のように残っていた。……


  「死者の書」
[#ここから5字下げ]
古都における、初夏のタぐれの対話
[#ここで字下げ終わり]

 客 なんともいえず好い気もちだね。すこし旅に疲れた体をやすめながら、暮れがたの空をこうやって見ているのは。
 主 京都もいまが一番いいんだ。この頃のように澄み切った空のいろを見ていると、すっかり京都に住みついている僕なんぞも、なんだかこう旅さきにいるような気がしてきてならないね。まあ、そういう気もちになるだけでもいいからな……それにしても、君はこの頃はよくこちらの方へ出てくるなあ。いつか話していた仕事はその後はかどっているのかい。何か、大和のことを書くとかいっていたが……
 客 いや、あれはあのままだ。なかなか手がかりがつかないんだ。まあ、そのうち何んとかものにするよ。……なんしろ、まだ、こういった感じのものが書きたいと、埴輪《はにわ》をいじったり、万葉の歌を拾い読みしたりしては一種の雰囲気を自分のまわりに漂わせて、ひとりでいい気になっているぐらいのものだ。
……当分はまあ折を見ては、こうやってこちらに来て、できるだけ屡々《しばしば》みごとな田園と化した都址《みやこあと》や、西の京あたりの松林のなかなどをぶらぶらするようにしている。
 主 そうやって君は何げなさそうにぶらぶらしながら、突然、松林の奥から古代の風景が君の前にひらけるような瞬間を待っているわけなのだね。
 客 そうだよ。少くとも、はじめのうちはそうだった。だが、このごろはそういった奇蹟は詮《あきら》めている。まだ、自分には古代の研究がなにひとつ身についていないのだからね。もうすこしおとなしく勉強をする。
 主 だが、こんなことを僕から君に云うのもどうかと思うけれど、小説を書く気なら、あんまり勉強しすぎてしまってもいけないのではないかしら。ゲエテも、どこかで、こんなことを云っている。『自分はギリシヤ研究のおかげで「イフィゲニエ」を書いたが、自分のギリシヤ研究はすこぶる不完全なものだった。もしその研究が完全なものだったら、自分の「イフィゲニェ」は書かれずにしまったかも知れない。』
 客 うん、なるほどね。つまり、古代のことは程よく知っている位で、非常にういういしい憧れをもっているうちのほうが小説を書くのにはいいということになるわけか。これは好い言葉をきいた。……どうもこのごろ、自分でも悪い癖がついたとおもい出していたところだ。日本の古代文化の上にもはっきりした痕《あと》を印しているギリシヤやペルシャの文化の東漸ということを考えてみているうち、いつか興味が動きだしてギリシヤの美術史だとか、ペルシヤの詩だとか読み出している。それはまだいい、そのうちにいつのまにかゲエテの「ディヴァン」だとか、ノワィユ夫人の詩集までが机の上にもち出されているといった始末だ。
 主 (同情に充ちた笑)まあ、ゆっくりでもいいから、あまり道草をくわずに、仕事に精を出したまえ。……そういえば、数年まえに釈迢空さんが「死者の書」というのを書いていられたではないか、あの小説には実によく古代の空気が出ていたようにおもうね。
 客 そう、あの「死者の書」は唯一の古代小説だ。あれだけは古代を呼吸しているよ。まあ、ああいう作品が一つでもあってくれるので、僕なんぞにも何か古代が描けそうな気になっているのだよ。僕ははじめて大和の旅に出るまえに、あの小説を読んだ。あのなかに、いかにも神秘な姿をして浮かび上がっている葛城《かつらぎ》の二上山《ふたがみやま》には、一種の憧《あくが》れさえいだいて来たものだ。そうして或る晴れた日、その麓《ふもと》にある当麻寺《たぎまでら》までゆき、そのこごしい山を何か切ないような気もちでときどき仰ぎながら、半日ほど、飛鳥の村々を遠くにながめながらぶらぶらしていたこともあった。
 主 その二上山だ。その山に葬られた貴い、お方の亡《な》き骸《がら》が、塚のなかで、突然深いねむりから村びとたちの魂乞《たまご》いによって呼びさまされるあたりなどは、非常に凄かったね。森の奥の、塚のまっくらな洞のなかの、ぽたりぽたりと地下水が巌づたいにしたたり落ちてくる湿っぽさまでが、何かぞっとするように感ぜられた。
 客 全篇、森厳なレクヰエムだ、古代の埃及《エジプト》びとの数種の遺文に与えられた「死者の書」という題名が、ここにも実にいきいきとしている。
 主 毎日の写経に疲れて、若い女主人公がだんだん幻想的になって来、ある夕方、日の沈んでゆく西のほうの山ぎわにふと見知らない貴いおかたの俤《おもかげ》を見いだすところなども、まだ覚えている。
 客 あの写経をしている若い女のすがたは美しいね。僕はあそこを読んでからは女の手らしい古い写経を見るごとに、あの藤原の郎女《いらつめ》の気高くやつれた容子《ようす》をおもい出して、何んとなくなつかしくなる位だ。
 主 あの小説には、それからもう一つ、別の興味があった。大伴家特《おおとものやかもち》だ。柳の花の飛びちっている朱雀大路《すざくおおじ》を、長安かなんぞの貴公子然として、毎日の日課に馬を乗りまわしている兵部大輔《ひょうぶたいふ》の家持のすがたは何んともいえず愉《たの》しいし、又、藤原仲麻呂《ふじわらのなかまろ》がその家持と支那文学の話などに打ち興じながら、いつか話題がちかごろ仏教に帰依した姪の郎女《いらつめ》のうえに移ってゆく会話なども、いかにもいきいきとしていたな。
 客 そういうところに作者の底力がひとりでに出ている。人間として大きな幅のある人だ。
 主 一方、万葉学者としてもっとも独創に富んだ学説をとなえてきた、このすぐれた詩人が、その研究の一端をどこまでも詩的作品として世に問うたところに、あの作品の人性《ユマニテ》があるのだね。だが、どうしてあれほどのものが世評に上らなかったのだろう。
 客 世間はそういう仕事は簡単にディレッタンティズムとしてかたづけてしまうのだ。学界の連中は、こんどは小説という微妙な形式なので、読まずともいいとおもったろうし……本当にこの作品を読んだという人は、僕の知っている範囲では、五人とはいなかったものね。
 主 僕などもその一人だったわけか。幸福なる少数者の……しかし、それはそれだ。君もいい仕事をしてくれたまえ。いい読者になってあげるから。
 客 こんどはこっちに風が向いてきたな。まあ、もうすこし待ってくれ。まだ自分でもしようがないとおもうのは、大和の村々を歩いていると、なんだかこう、いつもお復習《さらい》をさせられているような気もちが抜けないことだ。もうすこし何処にいるのだかも忘れたようになって、あるときは初夏の
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