を一二本見つけて、旅のあわれを味ってみたかったのである。
 そこで、僕はそういう妻の返事には一向とりあわずに、ただ、すこし声を低くして言った。
「むこうの山に辛夷の花がさいているとさ。ちょっと見たいものだね。」
「あら、あれをごらんにならなかったの。」妻はいかにもうれしくってしようがないように僕の顔を見つめた。
「あんなにいくつも咲いていたのに。……」
「嘘をいえ。」こんどは僕がいかにも不平そうな顔をした。
「わたしなんぞは、いくら本を読んでいたって、いま、どんな景色で、どんな花がさいているかぐらいはちゃんと知っていてよ。……」
「何、まぐれあたりに見えたのさ。僕はずっと木曾川の方ばかり見ていたんだもの。川の方には……」
「ほら、あそこに一本。」妻が急に僕をさえぎって山のほうを指した。
「どこに?」僕はしかし其処には、そう言われてみて、やっと何か白っぽいものを、ちらりと認めたような気がしただけだった。
「いまのが辛夷《こぶし》の花かなあ?」僕はうつけたように答えた。
「しようのない方ねえ。」妻はなんだかすっかり得意そうだった。「いいわ。また、すぐ見つけてあげるわ。」
 が、もうその花さいた木々はなかなか見あたらないらしかった。僕たちがそうやって窓に顔を一しょにくっつけて眺めていると、目《ま》なかいの、まだ枯れ枯れとした、春あさい山を背景にして、まだ、どこからともなく雪のとばっちりのようなものがちらちらと舞っているのが見えていた。
 僕はもう観念して、しばらくじっと目をあわせていた。とうとうこの目で見られなかった、雪国の春にまっさきに咲くというその辛夷の花が、いま、どこぞの山の端にくっきりと立っている姿を、ただ、心のうちに浮べてみていた。そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫《しずく》のようにぽたぽたと落ちているにちがいなかった。


  浄瑠璃寺の春


 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木《あしび》の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著《つ》いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英《たんぽぽ》や薺《なずな》のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸《や》っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門の
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