くいっている。第一、きのう東京を立ってきたときからして、かなり強い吹きぶりだった。だが、朝のうちにこれほど強く降ってしまえば、ゆうがた木曾に着くまでにはとおもっていると、午《ひる》すこしまえから急に小ぶりになって、まだ雪のある甲斐《かい》の山々がそんな雨の中から見えだしたときは、何んともいえずすがすがしかった。そうして信濃境《しなのざかい》にさしかかる頃には、おあつらえむきに雨もすっかり上がり、富士見あたりの一帯の枯原も、雨後のせいか、何かいきいきと蘇《よみがえ》ったような色さえ帯びて車窓を過ぎた。そのうちにこんどは、彼方に、木曾のまっしろな山々がくっきりと見え出してきた。……
その晩、その木曾福島の宿に泊って、明けがた目をさまして見ると、おもいがけない吹雪だった。
「とんだものがふり出しました……」宿の女中が火を運んできながら、気の毒そうにいうのだった。「このごろ、どうも癖になってしまって困ります。」
だが、雪はいっこう苦にならない。で、けさもけさで、そんな雪の中を衝《つ》いて、僕たちは宿を立ってきたのである。……
いま、僕たちの乗った汽車の走っている、この木曾の谷の向うには、すっかり春めいた、明かるい空がひろがっているか、それとも、うっとうしいような雨空か、僕はときどきそれが気になりでもするように、窓に顔をくっつけるようにしながら、谷の上方を見あげてみたが、山々にさえぎられた狭い空じゅう、どこからともなく飛んできてはさかんに舞い狂っている無数の雪のほかにはなんにも見えない。そんな雪の狂舞のなかを、さっきからときおり出しぬけにぱあっと薄日がさして来だしているのである。それだけでは、いかにもたよりなげな日ざしの具合だが、ことによるとこの雪国のそとに出たら、うららかな春の空がそこに待ちかまえていそうなあんばいにも見える。……
僕のすぐ隣りの席にいるのは、このへんのものらしい中年の夫婦づれで、問屋の主人かなんぞらしい男が何か小声でいうと、首に白いものを巻いた病身らしい女もおなじ位の小声で相槌《あいづち》を打っている。べつに僕たちに気がねをしてそんな話し方をしているような様子でもない。それはちっともこちらの気にならない。ただ、どうも気になるのは、一番向うの席にいろんな恰好《かっこう》をしながら寝そべっていた冬外套の男が、ときどきおもい出したように起き上っては、床の
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