れはまだ僕のうちでもはっきりとしていない。……
僕たちはその牝山羊をつれた若い女に追いつこうとして、いそいで泥濘の街道に出て、再び道ばたの雪を拾いながら歩きはじめた。が、そんなことをして漸《よ》うやっと歩いている僕たちは、泥濘のなかをも平気で歩いてゆくその牝山羊をつれた女にもずんずん引き離されてしまった。そうしていつのまにか、また僕たち二人きりにされてしまった。
そんな調子でいくら歩いていっても、野辺山が原は尽きそうもない。もうかれこれ一時間ぐらいは歩いているだろう。腹もへってきているし、もうおしゃべりをする元気もなく、二人とも泥だらけになった靴をただ重そうに運んでいるきりになった。――そうして僕はもう口には出さずに、昔小さな本で読んだことのあるセガンティニの美しい生涯などを考えつづけていた。セガンティニには、アルプスの高原の自然のなかに――いわば人間の住める自然のぎりぎりの限界のようなところに人間を置いて描いているような絵が多いが、その絵がどれもこれも妙に人なつこい。人間の世界から離れれば離れるほど、そしてそこに描かれてあるアルプスの風景がいよいよきびしければきびしいほどセガンティニの絵のもっている人なつこさはいよいよ切実になってくる。――そこにセガンティニの絵の写真を見ただけでも、僕たちが何か心を動かされるものがありはすまいか。……そうだ、僕がさっき草原に立った木をしみじみと見ているうちに、ふいと何か思い出せそうで思い出せずにいたもの、そのために知らず知らず心を一ぱいにさせていたもの、それはそんな木の或る恰好《かっこう》ばかりではなしに、こういう高原のなかに生を得ているすべての小さな生きもののもっている深い味なのだ。それらのものは、ちょっと見ると、何か近づきがたいような孤独の相を帯びてみえるけれど、それらのものほど人なつこいものはないのだ。それほど切実に、存在の本質にあくがれているものはないのだ。……
そんなことを考えつづけながら、僕はもう自分の泥だらけになった靴の重たさもさほど苦にしなくなっていた。
「あそこの藪《やぶ》のなかに馬が二三匹草を食べていますね。もう村が近づいてきたのではないでしょうか。」
M君は自分の大きな身体をすこし持ち扱かい出しているように見える。
「畠もあるじゃないか。」僕はおもわず声をはずませた。「もう村に着いたようなものだ。」
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