は言葉を挿《はさ》んだ。「あなたの方の為事《しごと》は大へんでしょう?」
「そんなでもありませんわ、いまのところ何んにも困りませんの。」万里子さんはそんな事はいかにも何んでもなさそうな答えかたをした。
「そりあ困らないわけさ、一週間も同じものばかり食べさせられていても、僕はなんにも言わないんだもの。」K君はそうは言っても、すこしも不平そうではなかった。むしろ、そういう山のなかの簡素な暮らしを好んでいるようにさえ見えた。
 夕食は、しかし山のなかでは思いがけない御馳走だった。ひさしぶりに四人で鳥鍋をかこみながら身も心も温かになって、世はさまざまな話をするのは愉《たの》しかった。
 僕はこの秋から冬にかけてひとりで旅して歩いた大和路のことを話した。それからその旅のおわりに、エル・グレコの絵を見てきたことなども話した。――その倉敷という小さな町まで五時間もかかって往って、やっとそこの美術館にたどりつき、画廊にはいるなり、すぐエル・グレコの絵に近づいて見ると、それは思ったより小さなものだったが、いかにも凄い絵で、一ぺんではねつけられ、しかたなく他のゴッホやロオトレックなどを一とおり丁寧に見て歩いてから、一番最後に再びそれに近づいたら、こんどはやっと少し平静な気分でその絵に向えたことなど話しながら、エル・グレコなんぞの絵の自分たちにとって、なまやさしいものでないことをしみじみと告白した。
「それもごく小さな「受胎告知図」なんだがね。そこでは、この抒情的な画題に対していだいている僕たちの観念がものの見事に粉砕せられてしまっているのだ。天使は天使で、闇のなかから突然ぎらぎらと光を発する異常なものとして描かれているし、その天使のほうを驚いて見あげている処女の顔も何かただならぬように見える。すべてがいかにも悲劇的な感じなのだ。……こんどはこの一枚だけでもよく見てゆこうとおもって、ずいぶん一所懸命になって見てきたつもりだが、どうしてもまだその絵が分かったようで分からない。そう、分らないというより、なんだかこんな絵がこんなところに来ているのが不思議な気がしてくるのだ。なんだかそれがあるべき場所にいないような……それほど何か異様なのだ……」
「そのグレコの絵は僕も見たいね。」K君は何かじっと煖炉《だんろ》の上の空間を見入っているらしかった。
「こうやって火を焚《た》いていると夜でもちっとも
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