そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸のあたりまで一めんに苔《こけ》が生えていて、……そういえば、そんなにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこいらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も止まり、ついそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へしばらく目を憩わせる。と、苔の肌はしっとりとしている。ちょっとそれを撫でてみたくなるような見事さで。――そう、いまのいままでそれに気がつかなかったのは、いや、気がついていてもそれを何とも思わずにいたのは随分|迂闊《うかつ》だが、あそこは何かの大きな樹の下だったにちがいない。――すこし離れてみなければ、それが何んの樹だかも分からないほどの大きな樹だったのだ。あの頬杖をしている小さな石仏のうえにちらちらしていた木洩れ日も、よほど高いところから好い工合に落ちてきていたので、あんなに私を夢み心地にさせたのだったろう。
 あれは一体、何んの樹だったのだろうか?……そんなことをおもいながら、私はふと樹下思惟[#「樹下思惟」に傍点]という言葉を、その言葉のもつ云いしれずなつかしい心像を、身にひしひしと感じた。あれは一体、何んの樹? ……だが、あの大きな樹の下で、ひとり静かに思惟にふけっていたもの――それはあの笹むらのなかに小さな頭を傾《かし》げていた石仏だったろうか? それとも、それに見入りながらその怪しげな思惟像をとおしてはるか彼方のものに心を惹《ひ》かれていた私のほうではなかったろうか?
 それにしても、あそこには、――あの何やらメエルヘンめいた石仏の前には、いまだにあの愚かな村びとどもの香花が絶えないだろうか? 子供たちがそこいらの路傍から摘んでくるかわいらしい草花だけならいいが……


  十月


   一

[#地から1字上げ]一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
 くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽
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