ているうちに、つい出そびれて、やっと十二月になってこちらに来たような始末です。この七日にはどうしても帰京しなければならない用事がある上、こんどはどうしても倉敷《くらしき》の美術館にいってエル・グレコの「受胎告知」を見てきたいので、奈良には三四日しかいられないことになりました。まるでこの秋ホテルに預けておいた荷物をとりにだけきたような恰好《かっこう》です。
でも、そんな三四日だって、こちらでもって自分の好きなように過ごすことができるのだとおもうと、たいへん幸福でした。僕は一日の夜おそくホテルに著《つ》いてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺《むろうじ》や聖林寺《しょうりんじ》、それから浄瑠璃寺《じょうるりじ》などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥《あすか》の村々や山《やま》の辺《べ》の道《みち》のあたり、それから瓶原《みかのはら》のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床《ねどこ》にはいりました。……
翌朝、食堂の窓から、いかにも冬らしくすっきりした青空を見ていますと、なんだかもう此処にこうしているだけでいい、何処にも出かけなくったっていいと、そんな欲のない気もちにさえなり出した位ですから、勿論、めんどうくさい室生寺ゆきなどは断念しました。そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。三輪山の麓《ふもと》をすこし歩きまわってから、柿本人麻呂の若いころ住んでいたといわれる穴師《あなし》の村を見に纏向山《まきむくやま》のほうへも往ってみたりしました。このあたり一帯の山麓《さんろく》には名もないような古墳が群らがっているということを聞いていたので、それでも見ようとおもっていたのだけれど、どちらに向って歩いてみても、丘という丘が蜜柑畑《みかんばたけ》で、若い娘たちが快活そうに唄い唄い、鋏《はさみ》の音をさせながら蜜柑を採っているのでした。何か南国的といいたいほど、明るい生活気分にみちみちて
前へ
次へ
全64ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング