陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹《ふ》き放《はな》しの円柱のかげを歩きまわっていた。それからちょっとその扉の前に立って、このまえ来たときはじめて気がついたいくつかの美しい花文《かもん》を夕暗のなかに捜して見た。最初はただそこいらが数箇所、何かが剥《は》げてでもしまった跡のような工合にしか見えないでいたが、じいっと見ているうちに、自分がこのまえに見たものをそこにいま思い出しているのに過ぎないのか、それともそれが本当に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位の仄《ほの》かさで、いくつかの花文がそこにぼおっと浮かび出していた。……
それだけでも僕はよかった。何もしないで、いま、ここにこうしているだけでも、僕は大へん好い事をしているような気がした。だが、こうしている事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまう僕たち人間にとって、いつまでも好いことではあり得ないことも分かっていた。
僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲《し》み込《こ》んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅《か》いでみた。日なたの匂いまでもそこには幽《かす》かに残っていた。……
僕はそうやって何んだか気の遠くなるような数分を過ごしていたが、もうすっかり日が暮れてしまったのに気がつくと、ようやっと金堂から下りた。そうして僕はその儘《まま》、自分の何処かにまだ感ぜられている異様な温かみと匂いを何か貴重なもののようにかかえながら、既に真っ暗になりだしている唐招提寺の門を、いかにもさりげない様子をして
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