に先立つところの死苦[#「死に先立つところの死苦」に傍点]をはつきりと知つてゐた。又彼のやうに、少からずカリカチュアの趣味、レスビアンの趣味を有つてゐた。『ボオドレエルに就いて』といふジャック・リヴィエェルに宛てた手紙の中で、彼は『惡の華』が最初は『レスビアン』と題されてゐた事を、そして『惡の華』といふ題はバブウによつて發見されたのであることを喚起させてゐる。又二人とも屡々珍らしい形容詞を搜してくる。ボオドレエルが『秋の歌』の中で「出發のごとくに響く」ところの「神祕な物音」と形容したのは、プルウストが『ソドムとゴモル』の中で一少女の笑ひを「ジェラニウムの香りのやうに、きつくて、肉感的で、挑發的な笑ひ」と形容したのにも比較されよう。二人の間には、もつと他の類似點がある。不意打[#「不意打」に傍点]に關するボオドレエルの理論と、プルウストの作品の中にまるでヴォドヴィルのやうに仕組まれてある多くの不意打[#「不意打」に傍点]の効果と。ボオドレエルの傳説と、プルウストの傳説と。それから惡魔主義がボオドレエルの作品に於けるのは、スノビスムがプルウストの作品に於けるやうなものだ。ともに裝飾であり、缺點だ。……しかしながら、プルウストがボオドレエルの「影響」(この言葉に普通持たされる惡い意味で)を受けたとは言へない。ボオドレエルが彼に與へたものはすべてプルウストは自分の物としてゐる。(バルザックが「創造の錬金術」と名づけたものによつて)……私はペンを手にしたまま、讀んでゐるそのテキストからどうしても離れられなかつた。ときどき章句の美しさや、反省の情熱的興味が私の注意をそらしはしたが、そしてまたハムラン街の彼の部屋(いつも鎧扉の閉まつてゐる)の中で、眞夜中、死の床にならうとしてゐるそのベッドの上に體を折り曲げて、作品を校正したり、書き直したりしてゐるプルウストの幻が目の前にちらついてならなかつたけれども。死にかかつてゐる者によつて完成された、何といふ仕事! 死についての感想を筆記させるために死苦の中から再び身を起したプルウスト、そしてその痛ましい部屋の散らかりやうと云つたら!

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箱だの、壜だの、熱くなつた枕の皺の中に
くしやくしやになつてゐる貴重な手帳だの、
インキの汚點《しみ》のついた机掛の上にちらばつた本だの……
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