のことを思い出したそうだ。なんでも霜のひどく下りた朝のことで、山のほうから追われて来たらしいその鹿は、丁度その石崖のところまで来ると、ちょいと背後をふりむいてから、其処をすうっと跳びおりて、下の畠のなかを湯川《ゆがわ》のほうへ一散に逃げていった。そうしてその畠の真白な霜の上には、その鹿の傷ついた足の血が鮮やかに残っていたという話だ。……そんなことをきいてから、その石崖にかぎらず、この村のあちこちに残っている石崖のひとつひとつが、僕にはなんとなく意味ありげに思われて来てならなかった。まあ、そういった鹿の跳び越えていった石垣だとか、秋になると蔦《つた》かずらが真紅になったまま捲きついている、何か悽惨《せいさん》な感じの、遊女らしい小さな墓だとか、――そういうものなら、そのほかにも、まだまだ何かありそうだね、これという話らしい話がそれに伴っていなくとも。
学生 三好さんの詩にも、何処かの山村を、一匹の傷ついた鹿が足を縛られたまま、猟師にかつがれてゆく詩がありますね。あれは何処かしら?
主 伊豆の湯ヶ島あたりの風景だろう。僕は残念だが、とうとう鹿は見られなかった。向うの小瀬《こせ》あたりでも、一昔前までは、よく鹿の啼《な》きごえが聞えたそうだ。
学生 僕はこの間、チェホフの「学生」という短篇をよみました。復活祭で帰省していた一人の学生が、或日――北風の吹いている、寒い日でしたが、なんだか此の世にはいつの時代にもこんな風が吹きまくっていて、そこには無智と悲惨としか見られないような考えを抱いて、非常にうち沈んだ気もちになって、散歩から帰つて来ると、もう暮れがたで、隣り村の或農家の中庭では焚火《たきび》をしている。みると、それは昔自分の乳母だった寡婦と、その不しあわせな娘なので、学生はしばらくその焚火にあたらしてもらっているうち、急に使徒のペテロも丁度こんな風に焚火にあたっていたんだろう、と思い出し、それからペテロが鶏の啼くまえに三たびクリストを否《いな》んだ物語をその二人の女に向って話しはじめる。女たちは黙って聞いていたが、そのうち急に二人とも泣き出してしまう。学生はそこを立ち去りながら、なぜ彼女たちは泣いたのだろうかと考える。別に自分がその話を感動的に話したからではない。それはきっとその話のペテロに起った出来事が、彼女たちにも、又、自分にもいくらか関係しているからなんだろう。とおもうと、そんな昔から今日まで、断絶せずに続いている一つの鎖が見えるような気がしている。自分がその一方の端に触れたので、もう一方の端が揺れたのだ。真理と美とがあの大司祭の庭のなかで人びとを導いた、そうしていまもなおそれが我々を導いている。そう考えると、学生には急に自分に青春と幸福の感じが帰ってきて、人生が何か崇高な意味に充ちみちているように思われて来る。――そういった筋の、五六頁ばかりの短篇なのです。しかし、僕はそれを読んで、なんだかその学生と一しょになって泣きたいほど、感動しました。
主 ふむ、いい短篇だね。僕は読みそこなっていたが、いつかその本を貸してくれたまえ。しかし、君の話だけでも、大体は分かるね。ちょっと其処にある聖書をとってくれないか。そこのところを読んでみよう。ルカ伝だったね。(聖書をひらいて読む)「……やがて鶏鳴きぬ。主、ふりかえりてペテロに目をとめ給う。ここにペテロ、主の「今日にわとり鳴く前に、なんじ三度《みたび》われを否《いな》まん」と言い給いし御言《みことば》を憶《おも》いだし、外に出でて甚《いた》く泣けり。」――鶏が鳴くと、遠くからイエスが焚火《たきび》にあたっているペテロの方をふりむいて見る、するとペテロは急にイエスに言われた言葉を思い出し、はっと我に返って、庭の外へ出ていって、暗がりのなかではげしく泣き出すのだね。チェホフの短篇の話をきいて、ここのところを読むと、なんだかこう一層、そのときのペテロの慟哭《どうこく》が身ぢかに感ぜられて来るようだな。
学生 僕はこの短篇を読んだときにも思ったのですけれど、このペテロの話にしろ、いつかお書きになっていたエマオの旅びとの話にしろ、そんな縁遠いような物語がおもいがけず僕らの身ぢかに迫って来て、妙に感動させられることがあるのですが、それに反して日本の古い物語はいかに美しく、なつかしいと思っても、それだけの強い力がないような気がするのです。何か fatal なものの前にわれわれを無気力にさせてしまいます。そのチェホフの短篇は、まず、森のなかのもの寂しい自然の描写ではじまっています。チェホフの筆だと其処が非常に美しいんですが、そういうもの寂しい自然がすっかりその学生の心をめいらせているのです。――そんなものからチェホフは小説を書きはじめていますが、日本のいいものはそれとは反対に、一番最後にそ
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