いなさるかも知れないわ。けれども、そのために反ってあの方は救われるのじゃなくって?」
 河野扁理にはじめて会った時から、夫人に、彼の生のなかには九鬼の死が緯《よこいと》のように織りまざっていることを、そしてそれが彼をして死に見入ることによって生がようやく分るような不幸な青年にさせていることを見抜かせたところの、一種の鋭い直覚が、いま再び彼女のなかに蘇《よみがえ》って来ながら、そういう扁理の不幸を絹子に理解させるためには、いま言ったようなごく簡単な逆説《パラドックス》だけで充分であることを彼女に知らせたのだ。
「そうかしら……」
 絹子はそう答えながら、始めはまだ何処かしら苦痛をおびた表情で、彼女の母の顔を見あげていたけれども、そのうちにじっとその母の古びた神々しい顔に見入りだしたその少女の眼ざしは、だんだんと古画のなかで聖母を見あげている幼児のそれに似てゆくように思われた。



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「改造」
  
前へ 次へ
全35ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング