か古い手紙の切れっぱしのようなものの挟まってあるのを発見した。彼はそれを女の筆跡らしいと思った。そしてそれを何気なく読んだ。もう一度読みかえした。それからそれを注意深く元の場所にはさんで、なるたけ奥の方にその本を入れて置いた。覚えておくためにその表紙を見たら、それはメリメの書簡集だった。
 それからしばらく、彼は口癖のように繰り返していた。
 ――どちらが相手をより多く苦しますことが出来るか、私たちは試して見ましょう……


 夕方になると、扁理は自分のアパアトメントに帰える。
 彼の部屋は実によく散らかっている。それは彼が毎日九鬼の書庫を整理するのと同じような根気よさで、散らかしたもののように見える。――或る日、彼がその部屋へはいって行くと、新聞とか雑誌とかネクタイとか薔薇《ばら》とかパイプなどの堆積《たいせき》の上に、丁度水たまりの上に浮んだ石油のように、虹色になって何かが浮んでいるのを彼は発見した。
 それは、よく見ると、一つの美しい封筒だった。裏がえすと細木と書いてあった。そしてその筆跡は彼にすぐこの間のメリメ書簡集のなかに発見した古手紙のそれを思い出させた。
 彼は丁寧に封筒を切りながら、ひょいと老人のような微笑を浮べた。何も彼も知っているんだと言った風な……
 ――扁理はそんな風に二通りの微笑を使い分けるのだ。子供のような微笑と老人のような微笑と。つまり、他人に向ってするのと自分に向ってするのとを区別していたのだ。
 そしてそういう微笑のために、彼は自分の心を複雑なのだと信じていた。


 偏理にとって、細木夫人との二度目の面会が、その前のときよりもずっと深い心の状態においてなされたのは、そういうエピソオドのためだった。細木夫人の部屋は、彼の夢とは異って、装飾などもすこぶる質素だった。決してイギリス風でも、巴里風《パリふう》でもなかった。そしてそれは彼に何となく一等船室のサロンを思わせた。
 ときどき彼が船暈《ふなよい》を感じている人のような眼ざしを夫人の上に投げるのに注意するがいい。
 だが扁理の心理をそんなに不安にさせているのは、そういう環境のためばかりではなしに、細木夫人とともに故人の思い出を語りながら、たえず相手の気持について行こうとして、出来るだけ自分の年齢の上に背伸びをしているためでもあったのだ。
 ――この人もまた九鬼を愛していたのにちがいない、九鬼がこの人を愛していたように。と扁理は考えた。しかしこの人の硬い心は彼の弱い心を傷つけずにそれに触れることが出来なかったのだ。丁度ダイアモンドが硝子《ガラス》に触れるとそれを傷つけずにはおかないように。そしてこの人もまた自分で相手につけた傷のために苦しんでいる……
 そういう考えがたえず扁理を彼の年齢の達することのできない処に持ち上げようとしていたのだ。
 ――やがて、ひとりの十七八の少女が客間のなかに入ってくるのを彼は見た。
 彼はそれが夫人の娘の絹子であることを知った。その少女は彼女の母にまだあんまり似ていなかった。それが彼に何となくその少女を気に入らなく思わせた。
 彼は自分のいまの気持からは十七八の少女はあんまり離れ過ぎているように思った。彼はその少女の顔よりも彼女の母のそれの方をもっと新鮮に見出した。
 絹子の方でもまた、少女特有の敏感さによって、扁理の気持が彼女から遠くにあることを見抜いたらしかった。彼女は黙ったまま、二人の会話にはいろうとしなかった。
 彼女の母はすぐそれに気づいた。そして彼女の微妙な心づかいがそれをそのままにしておくことを許さなかった。彼女は母らしい注意をしながら、その二人をもっと近づけようとした。
 彼女はそれとなく扁理に娘の話をしだした。――或る日、絹子は学校友だちに誘われるままに初めて本郷の古本屋というものに入ってみたという。彼女がふとそこにあったラファエロの画集を手にとって見ると、その扉には九鬼という蔵書印がしてあった。そして彼女はそれを非常に欲しがっていた……
 突然、扁理が遮った。
「それは僕の売ったものかも知れません」
 夫人たちは驚いて彼を見上げた。すると彼は例の特有の無邪気な微笑を見せながらつけ加えた。
「九鬼さんにずっと前に貰ったのを、あの方の亡くなられる四五日前に、どうにも仕様がなくなって売ってしまったんです。今になってたいへん後悔しているんですけれども……」
 そういう自分の貧しさをどうしてこういう豊かな夫人たちの前で告白するような気になったのか、扁理自身にもよく分らなかった。だが、この告白は何となく彼の気に入った。彼は自分の思いがけない率直な言葉によって、夫人たちがひどく驚いているらしいのを、むしろ満足そうに眺めた。
 そうして扁理自身もまた、自分自身の子供らしい率直さにいつか驚き出した……

   
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