の場合、少女は自分自身の感情はその計算の中に入れないものだ。そして絹子の場合もそうだった。
※[#アステリズム、1−12−94]
ときどき鳴りもしないのにベルの音を聞いたような気がして自分で玄関に出て行ったり、器械がこわれていてベルが鳴らないのかしらと始終思ったりしながら、絹子はたえず何かを待っていた。
「扁理を待っているのかしら?」ふと彼女はそんなことを考えることもあったが、そんな考えはすぐ彼女の不浸透性の心の表面を滑って行った。
或る晩、ベルが鳴った。――その訪問者が扁理であることを知っても、絹子は容易に自分の部屋から出て行こうとしなかった。
やっと彼女が客間にはいって行くと、扁理は、帽子もかぶらずに歩いていたらしく、毛髪をくしゃくしゃにさせながら、青い顔をして、ちらりと彼女の方をにらんだ。それきり彼は彼女の方をふりむきもしなかった。
細木夫人は、そういう扁理を前にしながら、手にしている葡萄《ぶどう》の皿から、その小さい実を丹念に口の中へ滑り込ましていた。夫人は目の前の扁理のだらしのない様子から、ふと、九鬼の告別式の日に途中で彼に出会った時のことを思い出し、それからそれへと様々なことが考えられてならないのだが、彼女はそれから出来るだけ心をそらそうとして、一そう丹念に自分の指を動かしていた。
突然、扁理が言った――
「僕、しばらく旅行して来ようと思います」
「どちらへ?」夫人は葡萄の皿から眼を上げた。
「まだはっきり決めてないんですが……」
「ながくですの?」
「ええ、一年ぐらい……」
夫人はふと、扁理が、例の踊り子と一しょにそんなところへ行くのではないかと疑いながら、
「淋しくはありませんか」と訊《き》いた。
「さあ……」
扁理はいかにも気のない返事をしたきりだった。
絹子はといえば、その間黙ったまま、彼の肖像でも描こうとするかのように、熱心に彼を見つめていた。
そうして彼女の母が、扁理の、梳《くしけず》らない毛髪や不恰好《ぶかっこう》に結んだネクタイや悪い顔色などのなかに、踊り子の感化を見出している間、絹子はその同じものの中に彼女自身のために苦しんでいる青年の痛々しさだけしか見出さなかった。
扁理が帰った後、絹子は自分の部屋にはいるなり、思わず眼をつぶった。さっきあんまり扁理の赤い縞のあるネクタイを見つめ過ぎたので、眼が痛むのだ。するとその閉じた眼の中には、いつまでも赤い縞のようなものがチラチラしていた……
※[#アステリズム、1−12−94]
扁理は出発した。
都会が遠ざかり、そしてそれが小さくなるのを見れば見るほど、彼には出発前に見てきた一つの顔だけが次第に大きくなって行くように思われた。
一つの少女の顔。ラファエロの描いた天使のように聖《きよ》らかな顔。実物よりも十倍位の大きさの一つの神秘的な顔。そしていま、それだけがあらゆるものから孤立し、膨大し、そしてその他のすべてのものを彼の目から覆い隠そうとしている……
「おれのほんとうに愛しているのはこの人かしら?」
扁理は目をつぶった。
「……だが、もうどうでもいいんだ……」
そんなにまで彼は疲れ、傷つき、絶望していた。
扁理。――この乱雑の犠牲者には今まで自分の本当の心が少しも見分けられなかったのだ。そして何の考えもなしに自分のほんとうに愛しているものから遠ざかるために、別の女と生きようとし、しかもその女のために、もうどうしていいか分らないくらい、疲れさせられてしまっているのだ。
そうして彼はいま何処へ到着しようとしているのか?
何処へ?……
彼は突然、汽車が一つの停車場に停まると同時に、慌ててそこへ飛び降りてしまった。
それは何かの薬品の名を思い出させるような名前の、小さな海辺の町であった。
そしてこの一個のトランクすら持たぬ悲しげな旅行者は、停車場を出ると、すぐその見知らない町の中へ何の目的もなしに足を運んで行った。
彼はしかし歩いてゆくうちに、ふと変な気がしだした。……通行人の顔、風が気味わるく持ち上げている何かのビラ、何とも言えず不快な感じのする壁の上の落書、電線にひっかかっている紙屑《かみくず》のようなもの、――そういうものが彼になにかしら不吉な思い出を強請するのだ。扁理は或る小さなホテルにはいり、それから見知らない一つの部屋にはいった。あらゆるホテルの部屋に似ている一つの部屋。しかし、それすら彼に何かを思い出させようとし、彼を苦しめ出すのだ。彼は疲れていて非常に眠かった。そして彼はそのすべてを自分の疲れと眠たさのせいにしょうとした。彼はすこし眠った。……目をさますと、もう暗くなっていた。窓から入ってくる、湿っぽい風が扁理に、自分が見知らない町に来ていることを知らせた。彼は起き上り、それ
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