いたが、それでも絹子にすすめられるまま、客間に腰を下してしまった。
あいにく雨が降っていた。それでこの前のように庭へ出ることもできないのだ。
二人は向い合って坐っていたが、別に話すこともなかったし、それに二人はお互に、相手が退屈しているだろうと想像することによって、自分自身までも退屈しているかのように感じていた。
そうして二人は長い間、へんに息苦しい沈黙のなかに坐っていた。
しかし二人は室内の暗くなったことにも気のつかないくらいだった。――そんなに暗くなっていることに初めて気がつくと、驚いて扁理は帰って行った。
絹子はそのあとで、何だか頭痛がするような気がした。彼女はそれを扁理との退屈な時間のせいにした。だが、実は、それは薔薇《ばら》のそばにあんまり長く居過ぎたための頭痛のようなものだったのだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
そういう愛の最初の徴候は、絹子と同じように、扁理にも現われだした。
自分の乱雑な生き方のおかげで、扁理はその徴候をば単なる倦怠《けんたい》のそれと間違えながら、それを女達の硬い性質と自分の弱い性質との差異のせいにした。そして「ダイアモンドは硝子《ガラス》を傷ける」という原理を思い出して、自分もまた九鬼のように傷つけられないうちに、彼女たちから早く遠ざかってしまった方がいいと考えた。そして彼は彼独特の言い方で自分に向って言った。――自分を彼女たちに近づけさせたところの九鬼の死そのものが、今度は逆に自分を彼女たちから遠ざけさせるのだと。
そしてそういう驚くほど簡単な考え方で彼女たちから遠ざかりながら、扁理は再び自分の散らかった部屋のなかに閉じこもって、自分一人きりで生きようとした。すると今度は、その閉じ切った部屋の中から、本当の倦怠が生れ出した。しかし扁理自身はその本物も贋物《にせもの》もごっちゃにしながら、ただ、そういうものから自分を救い出してくれるような一つの合図しか待っていなかった。
一つの合図。それはカジノの踊り子たちに夢中になっている彼の友人たちから来た。
或る晩、扁理は友人たちと一しょにコック場のような臭いのするカジノの楽屋廊下に立ちながら、踊り子たちを待っていた。
彼はすぐ一人の踊り子を知った。
その踊り子は小さくて、そんなに美しくなかった。そして一日十幾回の踊りにすっかり疲れていた。だが、その自棄気味《やけぎみ》で、陽気そうなところが、扁理の心をひきつけた。彼はその踊り子に気に入るために出来るだけ自分も陽気になろうとした。
しかし踊り子の陽気そうなのは、彼女の悪い技巧にすぎなかった。彼女もまた彼と同じくらいに臆病だった。が、彼女の臆病は、人に欺かれまいとするあまりに人を欺こうとする種類のそれだった。
彼女は扁理の心を奪おうとして、他のすべての男たちとふざけ合った。そして彼を自分から離すまいとして、彼と約束して置きながら、わざと彼を待ち呆けさせた。
一度、扁理が踊り子の肩に手をかけようとしたことがある。すると踊り子はすばやくその手から自分の肩を引いてしまった。そして彼女は、扁理が顔を赤らめているのを見ながら、彼の心を奪いつつあると信じた。
こういう二人の気の小さな恋人同志がどうして何時までもうまくやって行けるだろうか?
或る日、彼は公園の噴水のほとりで踊り子を待っていた。彼女はなかなかやって来ない。それには慣れているから彼はそれをそれほど苦痛には感じない。が、そのうちふと、踊り子とは別の少女――絹子のことを彼は考え出した。そして若《も》しいま自分の待っているのがその踊り子ではなくて、あの絹子だったらどんなだろうと空想した。……が、その莫迦《ばか》げた空想にすぐ自分で気がついて、彼はそれを踊り子のための現在の苦痛から回避しようとしている自分自身のせいにした。
扁理の乱雑な生活のなかに埋もれながら、なお絶えず成長しつつあった一つの純潔な愛が、こうしてひょっくりその表面に顔を出したのだ。だが、それは彼に気づかれずに再び引込んで行った……
絹子はといえば、扁理が自分たちから遠ざかって行くのを、最初のうちは何かほっとした気持で見送っていた。が、それが或る限度を越え出すと、今度は逆にそれが彼女を苦しめ出した。しかし、それが扁理に対する愛からであることを認めるには、少女の心はあまりに硬過ぎた。
細木夫人の方は、扁理がこうして遠ざかって行くのを、むしろ、彼に訪問の機会を与えてやらない自分自身の過失のように考えていた。しかし夫人には扁理を見ることは楽しいことよりも、むしろ苦しいことの方が多かった。そうして月日が九鬼の死を遠ざければ遠ざけるほど、彼女に欲しいのは平静さだけであった。だから、彼女は扁理がだんだん遠ざかって行くのを見ても、それをそのままに
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