が、彼女が両親に死にわかれてから一時この家へ養女になっていたので、そのうちに折合が悪くなってこの家を飛び出してしまっている今でも、彼女はこの叔母のことを「母《かあ》さん」と呼んでいるのである。)の家へ遊びにくるようになっているのは知ってもいたし、二三度顔を合わせたこともあるが、さて、こんな風に二人きりで差し向いになって見ると、相手がいかにも芸妓らしくなりすましているだけ、昔のように口を利《き》くのが弘には何となく気まりが悪いのである。しかし、そういうお照に対して、弘の好奇心はかなり烈《はげ》しく動いている。
 しばらくの間、二人はちょいと気づまりな沈黙を続けていた。
「母さんは何時頃から出かけて?」
 遠慮がちにではあったが、持ち前のすこししゃがれたような声で、お照がやっとそれを破った。
「お午《ひる》頃。」弘は矢張り背中を向けたまま、ぶっきら棒に返事をした。
「もう三時過ぎだから、もう帰ってきそうなもんね?」と半ばひとりごとのように、お照はつぶやいた。そうしてそのまま、又、二人はちょっと黙り合っている。
「あああ……」と弘はとうとう溜《たま》らなくなったように、欠伸《あくび》をわざと大きくしながら、足を投げ出した。そうしてくるりと横になった。と、その途端に、さっきからちっとも娘たちの騒ぎが聞えて来ないでいることに弘ははじめて気がついた。なんだかひっそりしている。何をしているんだろう、と弘はしばらくお照を忘れて、そっちの方へ気をとられていた。……
「お茶でも淹《い》れましょうか?」膝《ひざ》の上で何やら本を読み出していたお照が、ふいとその本から目を上げて、弘に言った。
「こっちへいらっしゃらない?」
「うん。」
 弘はやっと渋々と起き上って、長火鉢のそばへ行った。そしてお照の反対の側にどかりと坐りながら、うしろの障子に背中をもたらせながら、立膝をしたまま、お照の顔をまぶしそうに見つめた。
「そんな風に人の顔を見るものじゃなくってよ。」
「だって、ずいぶん変な顔だもの。」
 少年は、精いっぱいの皮肉を言ったつもりでいるらしい。そう言って、さも嘲《あざ》けるように笑っている。事実、顔の浅黒い娘が頸《くび》にだけ真白にお白粉《しろい》をつけているのが変てこだと思っているのである。
「まあ、ご挨拶《あいさつ》ね、……弘ちゃんにはかなわないわ。」
 娘は目を伏せたまま、いままで膝にのせていた洋綴《ようとじ》の本を下に置いた。そうしてその表紙を無意味に見ている。
「何を読んでいるんだい? 小説?」それを少年は覗《のぞ》き込むようにして見た。
「ええ、弘ちゃんも小説読むの?」
「僕だって小説ぐらいは読むさあ……それは何んの小説だい?」
「モオパスサンよ……でも、こんなのは弘ちゃんは読まない方がいいわ……」
「そんなのは知らないや……僕は探偵小説の方がいい。」
 少年だってモオパスサンがどんな外国の作家だぐらいはこっそり聞き噛《かじ》っている。しかし、わざと娘にそんな返事をしてやった。だから、少年は大した皮肉を言ってやったつもりでいる。そうして、ふと、昔、自分が十ぐらいで、この娘がまだ十三四でこの家に養女分でいた時分、ただもうこの年上の娘をいじめるのが面白くっていじめたりしていた時のような、子供らしい残酷な心もちが、現在の自分の心のうちにも蘇《よみがえ》って来るように感ずる。なんでもないことに腹を立てて、この年上の娘を撲《なぐ》ったり、足蹴《あしげ》にしたりしたが、娘の方では一度も自分にはむかって来ようとはしない。ただ、少年にされるがままになっている。そこに他の者が居合わせても別に留めようともしない。少年はしまいには、ただ面白ずくでそんな風に娘をいじめるようになっていた。……ところが、一度、どうしたのか娘は顔を真青にして、いきなり少年にむしゃぶりついてきた。少年はびっくりして、それっきりもう娘に手出しをしなくなった。……娘がそのおばさんの家を最初に飛び出したのは、それから間もないことであった。……
 そんな風にやっと二人が打ち解けて話し合いだした時分に、がらりと格子のあく音がした。二人がふりむいて見ると、それは弘の母であった。
「おや、照ちゃんもいたのかい?」
 少年は自分の母を見ると、長火鉢からすこし居退《いざ》るようにして、障子に出来るだけぴったりと体を押しつけるようにしている。お照とこんな風に差し向いで話をしているところを母に見つかって、いかにも気まりが悪そうである。
「こんちは。……そこの髪結さんまで来たんでちょっと寄ってみたの。……なんだかすこし根がつまりすぎて……」そんなことをお照はしゃあしゃあと答えながら、それが気になるように結い立ての銀杏がえしへ手をやっている。
 弘の母はそっちをちらっと見て、
「よく結えたよ」と愛想よく言って、それから弘に向って「弘ちゃん、ちょっと御供所《おみきしょ》までいって、お父さんを呼んできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びですからって。……いったらいったきりで、ちょっとやそっとでは帰って来ないんだからね。……ほんとに困っちまう。」
 それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出しでもするようにして、下駄を突っかけたまま、おもてへ飛び出していった。
 それから、弘の母は二言三言お照と立ち話をしていたが、いそがしそうに再び自分の家へ帰って行ってしまった。あとには、お照が一人だけ長火鉢の傍《そば》に取り残された。
 お照は、それから暫《しばら》くぼんやりと、いましがた弘の勉強していた茶ぶ台の方を眺《なが》めていた。茶ぶ台の上には、まだ何やらわけのわからぬ図形や記号の一ぱい描きちらされている帳面が、開けたまんまになっている。――そんなお照の心にはいつか、よくその同じ場所で、ひとりで落語の稽古《けいこ》をしていた死んだ清ちゃんの後姿が蘇ってきている。清ちゃんもずいぶん不幸な人だったらしいけれど、――と、お照はそれからしばらく、自分にも、弘にも叔父にあたる、かつ若という落語家だった、その清ちゃんの不幸な身の上を考えるともなく考えている。……若い時から落語家の円三さんの弟子になっていたが、中途でぐれ出して、旅廻りの浪花節《なにわぶし》語りにまで身を堕《おと》していたが、そのうち再び落語家の小かつさんに拾われ、それからは心をいれかえて一しょう懸命に高座を勤めていたので、小かつさんにも可愛がられ、真打《しんうち》になったら自分の名を襲《つ》がせてやろうとまで言われるようになったのに、若いとき身を持ち崩した祟《たた》りで、悪い病気がとうとう脳にきて、その頃|同棲《どうせい》していた、下座《げざ》の三味線|弾《ひ》きのお玉さんの根岸の家で死んだのは、つい一咋年のことだったが、なんだか随分昔のような気もする。その間に、あんまり私も苦労をしすぎたせいかも知れない。そう云や、清ちゃんと私とは同じような性分なのかも知れないな。……と、そんなことやら、あそこで壁を向いてひとり稽古に夢中になっている清ちゃんの後姿を見ながら聞いていると、可笑《おか》しな落語もちっとも可笑しくなかったことやらを、思い浮べて、お照は何気なしにふと淋《さび》しい微笑を誘われていた。……
 弘はあれっきりまだ帰って来ないのである。親ゆずりでお祭りなんぞも好きな性分だから、父と一しょになって、神輿《みこし》の世話を手つだいだしているのかも知れない。そうして、そんな弘よりも先きに、中洲へ出かけていたおばさんの方がかえって来てしまったのである。
「誰かと思ったらお照だったのかい?……弘ちゃんは……」
「いましがたお向うのおばさんがいらっしって、お使いにやられたわ。」
 おばさんは長火鉢の向うの、さっきまで弘の坐っていた場所へ、
「ああ草臥《くたび》れたこと。」と言いながら、どっかと坐った。
「あたし、そこまで髪を結いにきたの。……ちょっと寄ったら留守番をおおせつかっちゃった。……でも、もうこうしちゃいられないわ。また、来ますわ。」
「まあお茶でも飲んでおいでよ。」
「お茶なら、ほんとにあたし、もう沢山。……なんだかきょうの髪、すこし根がつまりすぎて……」お照はさっきと同じようなことを言って、まだ気になってしようがないように自分の髪へちょっと手をやっていたが、そのとき急に、向うの家のなかからどっと若い娘たちの笑いくずれる声が起った。――「お向うは大へんね。……」
「姉さんも、この頃はお花にばかり夢中でね。……それでも、五六人、どうやらお弟子《でし》が出来たのさ。」
「そうだそうですね。」
「でも、おかしいんだよ。……そのお師匠さんがさ、お弟子のことを一々私に話すんだがね。……どうもこの娘は器量はいいがすこしお転婆《てんば》のようだとか。……性質はよさそうだけれど、すこし器量がよくなくってとか。……何のことはない、まるで弘ちゃんのお嫁さん捜しをしているようなもんだからね。」
「ふ、ふ、今からそんな心配をされてた日にゃ、弘ちゃんもやりきれないわね。」
「姉さんたら、本当にそんな心配ばかりしているんだよ。……面白いったらありぁしない。……あんなにおとなしい子だから、女にでも欺《だま》されて、清ちゃんみたいになりぁしないかってさ……」
「まさか。」
 お照は笑いながら何ということなしにちらりと顔を赧《あか》らめた。
「でもね、弘ちゃんがあそこで、ああして勉強している後姿を見ているとね、なんだか清ちゃんのことが思い出されてならないんだよ。……面《おも》うつりがするんだろうね。……だけど、そんなことを姉さんに言おうものなら、気にしそうだから、あたしゃ黙っているのさ。」
「あら、あたしもさっきそんな気がしたわ。……やっぱり血筋なのね。……」そう言いかけながら、お照は急に気がついたかのように、「ああ、こうしちゃいられないわ。……また、来ますわ。……じゃ、左様なら。」と言って、性急そうに立ち上ると、すこし蓮葉《はすは》に下駄を突っかけながら、がらりと格子を開けて出ていった。――

「あら、何か忘れものをしていったよ。……何て、まあ、そそっかしやさんなんだろう。……」おばさんはそう口のうちで呟《つぶや》きながら、長火鉢の傍に置き忘れられてある黄いろい表紙の本を取り上げた。字のよく読めないおばさんには、モオパスサンという片仮名だけはわかったが、それがどんな題の、どんなことを書いた本だかは、すこしもわからないのである。……
[#改ページ]

     秋

 私は震災後、しばらく父と二人きりで、東京から一里ばかり離れたY村で暮らしていた。その小さな、汚《きたな》い、湿気の多い村は、A川に沿っていた。その川向うは、すぐその沿岸まで、場末のさわがしい工場地帯が延びてきていた。私の父方の親類の家がその村にあったので、私は幼い頃、ときどき父に連れられて写真機などを肩にしては、この辺へも遊びに来たものだった。が、それっきり、その地震の時まで、私は殆《ほと》んどこの村を訪れたことがなかった。――そんなに足場の悪い、貧弱な村も、その地震の直後は、避難民たちで一ぱいになり、そのひっそりした隅々《すみずみ》まで引っくり返されたように見えたが、二週間たち、三週間たちしているうちに、それらの人々も、或るものは焼跡へ帰って行ったり、又、他のものは田舎《いなか》の、それぞれに縁故のある村へ立ち退《の》いて行ったりして、この村も、丁度コスモスの咲き出した頃には、漸《ようや》くその本来のもの静かな性質を取り戻しつつあった。
 私は父とその村に小さな家を借りて、しばらく落着いていることにしたのだが、その頃私はと言えば、何んとも言いようのない、可笑《おか》しな矛盾に苦しめられていた。私は私の母を、その地震によって失ったばかりであった。それにもかかわらず、私には自分がその事からさほど大きな打撃を受けているとはどうしても信じられなかったのだ。私自身にもそれが意外な位であった。そうしてそれは、その村で私の出遇《であ》った昔の知人どもが、「まあ、お可哀そうに……」と言いたげな顔つきで私を見ながら、
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