配がもうないのだ。
 ああ、このような孤独のただ中での彼女のふしぎな蘇生《そせい》。――彼女はこう云う種類の孤独であるならばそれをどんなに好きだったか。彼女が云い知れぬ孤独感に心をしめつけられるような気のしていたのは、一家団欒《いっかだんらん》のもなか、母や夫たちの傍《かたわら》であった。いま、山の療養所に、こうして一人きりでいなければならない彼女は、此処ではじめて生の愉《たの》しさに近いものを味っていた。生の愉しさ? それは単に病気そのもののけだるさ、そのために生じるすべての瑣事《さじ》に対する無関心のさせる業だろうか。或は抑制せられた生に抗して病気の勝手に生み出す一種の幻覚に過ぎないのだろうか。

 一日は他の日のように徐《しず》かに過ぎて行った。
 そういう孤独な、屈托《くったく》のない日々の中で、菜穂子が奇蹟のように精神的にも肉体的にもよみ返って来だしたのは事実だった。しかし一方、彼女はよみ返ればよみ返るほど、漸《ようや》くこうして取戻し出した自分自身が、あれほどそれに対して彼女の郷愁を催していた以前の自分とは何処か違ったものになっているのを認めない訣《わけ》には行かなかった。彼女はもう昔の若い娘ではなかった。もう一人ではなかった。不本意にも、既に人の妻だった。その重苦しい日常の動作は、こんな孤独な暮しの中でも、彼女のする事なす事にはもはやその意味を失いながらも、いまだに執拗《しつよう》に空《くう》を描きつづけていた。彼女は今でも相変らず、誰かが自分と一しょにいるかのように、何んと云う事もなしに眉をひそめたり、笑をつくったりしていた。それから彼女の眼ざしはときどきひとりでに、何か気に入らないものを見咎《みとが》めでもするように、長いこと空《くう》を見つめたきりでいたりした。
 彼女はそう云う自分自身の姿に気がつく度毎に、「もう少しの辛抱……もう少しの……」と何かわけも分からずに、唯、自分自身に云って聞かせていた。

   七

 五月になった。圭介の母からはときどき長い見舞の手紙が来たが、圭介自身は殆ど手紙と云うものをよこした事がなかった。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思い、結局その方が彼女にも気儘《きまま》でよかった。彼女は気分が好くて起床しているような日でも、姑へ返事を書かなければならないときは、いつもわざわざ寝台にはいり、仰向けになって鉛筆で書きにくそうに書いた。それが手紙を書く彼女の気持を佯《いつわ》らせた。若《も》し相手がそんな姑ではなくて、もっと率直な圭介だったら、彼女は彼を苦しめるためにも、自分の感じている今の孤独の中での蘇生の悦《よろこ》びをいつまでも隠《かく》し了《おお》せてはいられなかっただろう。……
「かわいそうな菜穂子。」それでもときどき彼女はそんな一人で好い気になっているような自分を憐むように独り言をいう事もあった。「お前がそんなにお前のまわりから人々を突き退けて大事そうにかかえ込んでいるお前自身がそんなにお前には好いのか。これこそ自分自身だと信じ込んで、そんなにしてまで守っていたものが、他日気がついて見たら、いつの間にか空虚だったと云うような目になんぞ逢ったりするのではないか……」
 彼女はそういう時、そんな不本意な考えから自分を外《そ》らせるためには窓の外へ目を持って行きさえすればいい事を知っていた。
 其処では風が絶えず木々の葉をいい匂をさせたり、濃く淡く葉裏を返したりしながら、ざわめかせていた。「ああ、あの沢山の木々。……ああ、なんていい香りなんだろう……」

 或日、菜穂子が診察を受けに階下の廊下を通って行くと、二十七号室の扉のそとで、白いスウェタアを着た青年が両腕で顔を抑さえながら、溜《た》まらなそうに泣きじゃくっているのを見かけた。重患者の許嫁《いいなずけ》の若い娘に附添って来ている、物静かそうな青年だった。数日前からその許嫁が急に危篤に陥り、その青年が病室と医局との間を何か血走った眼つきをして一人で行ったり来たりしている、いつも白いスウェタアを着た姿が絶えず廊下に見えていた。……
「やっぱり駄目だったんだわ、お気の毒に……」菜穂子はそう思いながら、その痛々しい青年の姿を見るに忍びないように、いそいでその傍を通り過ぎた。
 彼女は看護婦室を通りかかったとき、ふいと気になったので其処へ寄って訊《き》いて見ると、事実はその許嫁の若い娘がいましがた急に奇蹟のように持ち直して元気になり出したのだった。それまでその危篤の許嫁の枕もとにふだんと少しも変らない静かな様子で附添っていた青年はそれを知ると、急にその傍を離れて、扉のそとへ飛び出して行ってしまった。そしてその陰で、突然、それが病人にもわかるほど、嬉し泣きに泣きじゃくり出したのだそうだった。……
 診察から帰って来たときも、菜穂子はまだその病室の前にその白いスウェタアを着た青年が、さすがにもう声に出して泣いてはいなかったけれど、やはり同じように両腕で顔を掩《おお》いながら立ち続けているのを見出した。菜穂子はこんどは我知らず貪《むさぼ》るような眼つきで、その青年の震える肩を見入りながら、その傍を大股にゆっくり通り過ぎた。
 菜穂子はその日から、妙に心の重苦しいような日々を送っていた。機会さえあれば看護婦を捉えて、その若い娘の容態を自分でも心から同情しながら根掘り葉掘り聞いたりしていた。しかし、その若い娘がそれから五六日後の或夜中に突然|喀血《かっけつ》して死に、その白いスウェタア姿の青年も彼女の知らぬ間に療養所から姿を消してしまった事を知ったとき、菜穂子は何か自分でも理由の分からずにいた、又、それを決して分かろうとはしなかった重苦しいものからの釈放を感ぜずにはいられなかった。そしてその数日の間彼女を心にもなく苦しめていた胸苦しさは、それきり忘れ去られたように見えた。

   八

 明は相変らず、氷室《ひむろ》の傍で、早苗と同じようなあいびきを続けていた。
 しかし明はますます気むずかしくなって、相手には滅多に口さえ利かせないようになった。明自身も殆ど喋舌《しゃべ》らなかった。そして二人は唯、肩を並べて、空を通り過ぎる小さな雲だの、雑木林の新しい葉の光る具合だのを互に見合っていた。
 明はときどき娘の方へ目を注いで、いつまでもじっと見つめている事があった。娘がなんと云う事もなしに笑い出すと、彼は怒ったような顔をして横を向いた。彼は娘が笑うことさえ我慢できなくなっていた。ただ娘が無心そうにしている容子だけしか彼には気に入らないと見える。そう云う彼が娘にもだんだん分かって、しまいには明に自分が見られていると気がついても、それには気がつかないようにしていた。明の癖で、彼女の上へ目を注ぎながら、彼女を通してそのもっと向うにあるものを見つめているような眼つきを肩の上に感じながら……
 しかし、そんな明の眼つきがきょうくらい遠くのものを見ている事はなかった。娘は自分の気のせいかとも思った。娘はきょうこそ自分が此の秋にはどうしても嫁いで行かなければならぬ事をそれとなく彼に打ち明けようと思っていた。それを打ち明けて見て、さて相手にどうせよと云うのではない、唯、彼にそんな話を聴いて貰って、思いきり泣いて見たかった。自分の娘としての全てに、そうやってしみじみと別れを告げたかった。何故なら明とこうして逢っている間くらい、自分が娘らしい娘に思われる事はなかったのだ。いくら自分に気むずかしい要求をされても、その相手が明なら、そんな事は彼女の腹を立てさせるどころか、そうされればされる程、自分が反って一層娘らしい娘になって行くような気までしたのだった。……
 何処か遠くの森の中で、木を伐《き》り倒《たお》している音がさっきから聞え出していた。
「何処かで木を伐っているようだね。あれは何だか物悲しい音だなあ。」明は不意に独り言のように云った。
「あの辺の森ももとは残らず牡丹屋の持物でしたが、二三年前にみんな売り払ってしまって……」早苗は何気なくそう云ってしまってから、自分の云い方に若《も》しや彼の気を悪くするような調子がありはしなかったかと思った。
 が、明はなんとも云わずに、唯、さっきから空《くう》を見つめ続けているその眼つきを一瞬切なげに光らせただけだった。彼は此の村で一番由緒あるらしい牡丹屋の地所もそうやって漸次人手に渡って行くより外はないのかと思った。あの気の毒な旧家の人達――足の不自由な主人や、老母や、おようや、その病身の娘など……。
 早苗はその日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。日が暮れかかって来たので、明だけを其処に残して、早苗は心残りそうに一人で先に帰って行った。
 明は早苗をいつものように素気なく帰した後、暫くしてから彼女がきょうは何んとなく心残りのような様子をしていたのを思い出すと、急に自分も立ち上って、村道を帰って行く彼女の後姿の見える赭松《あかまつ》の下まで行って見た。
 すると、その夕日に赫《かがや》いた村道を早苗が途中で一しょになったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近づいたりしながら歩いていく姿が、だんだん小さくなりながら、いつまでも見えていた。
「お前はそうやって本来のお前のところへ帰って行こうとしている……」と明はひとり心に思った。「おれは寧《むし》ろ前からそうなる事を希《ねが》ってさえいた。おれは云って見ればお前を失うためにのみお前を求めたようなものだ。いま、お前に去られる事はおれには余りにも切な過ぎる。だが、その切実さこそおれには入用なのだ。……」
 そんな咄嗟《とっさ》の考えがいかにも彼に気に入ったように、明はもう意を決したような面持ちで、赭松に手をかけた儘《まま》、夕日を背に浴びた早苗と巡査の姿が遂に見えなくなるまで見送っていた。二人は相変らず自転車を中にして互に近づいたり離れたりしながら歩いていた。

   九

 六月にはいってから、二十分の散歩を許されるようになった菜穂子は、気分のいい日などには、よく山麓《さんろく》の牧場の方まで一人でぶらつきに行った。
 牧場は遥か彼方まで拡がっていた。地平線のあたりには、木立の群れが不規則な間隔を置いては紫色に近い影を落していた。そんな野面の果てには、十数匹の牛と馬が一しょになって、彼処此処と移りながら草を食べていた。菜穂子は、その牧場をぐるりと取り巻いた牧柵《ぼくさく》に沿って歩きながら、最初はとりとめもない考えをそこいらに飛んでいる黄いろい蝶のようにさまよわせていた。そのうちに次第に考えがいつもと同じものになって来るのだった。
「ああ、なぜ私はこんな結婚をしたのだろう?」莱穂子はそう考え出すと、何処でも構わず草の上へ腰を下ろしてしまった。そして彼女はもっと外の生き方はなかったものかと考えた。「なぜあの時あんな風な抜きさしならないような気持になって、まるでそれが唯一の避難所でもあるかのように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう?」彼女は結婚の式を挙げた当時の事を思い出した。彼女は式場の入口に新夫の圭介と並んで立ちながら、自分達のところへ祝いを述べに来る若い男達に会釈していた。この男達とだって自分は結婚できたのだと思いながら、そしてその故に反って、自分と並んで立っている、自分より背の低い位の夫に、或気安さのようなものを感じていた。「ああ、あの日に私の感じていられたあんな心の安らかさは何処へ行ってしまったのだろう?」
 或日、牧柵を潜《くぐ》り抜けて、かなり遠くまで芝草の上を歩いて行った菜穂子は、牧場の真ん中ほどに、ぽつんと一本、大きな樹が立っているのを認めた。何かその樹の立ち姿のもっている悲劇的な感じが彼女の心を捉えた。丁度牛や馬の群れがずっと野の果ての方で草を食《は》んでいたので、彼女はそちらへ気を配りながら、思い切ってそれに近づけるだけ近づいて行って見た。だんだん近づいて見ると、それは何んと云う木だか知らなかったけれど、幹が二つに分かれて、一方の幹には青い葉が簇《むら》がり出ているのに、他方の幹だけはいかにも苦しみ悶《もだ》えているような枝ぶりを
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